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日々是推敲

「新明解百科語辞典」を知っていますか(3)

(前回までのあらすじ)ブダペストで謎の死を遂げた防具マニアで推理小説好きの世界的大富豪が、妻の忘れ形見である一人娘に託した遺言は、「『新明解百科語辞典』の謎を解け」だった……。

「新明解百科語辞典」を知っていますか(1) - TBLG

「新明解百科語辞典」を知っていますか(2) - TBLG

 

2)特集ページをひもとく(承前) 

レベル5 怪物

『新明解百科語辞典』には、二十一世紀に生きる我々がもはや想像力の中でしか出会うことの出来ない怪物たちが眠っている。彼らは並みいる他の有用な百科的項目(「しゅりょうごんぎょう」とか)を押しのけ、大胆に図版を配置した特集ページという独立した王国を確立した。それも三つも。百科事典という、それを手に取る個人にとって知識と非知識のあわいにある領域こそが、実在と非実在のあわいに棲む自分たちにとっては最適の居場所なのだと考えているかのようだ。そんな居心地のいい、都会の喧騒を離れて潮騒とか木々の葉擦れとか吹雪だけをBGMとする文人たちの愛した隠れ家バー的にこじんまりとした小百科事典をわざわざ暴き立てるのも申し訳ない気がするが、辞書は「取材おことわり」みたいなことをとくに言わないのがいいところなので、暴き立てさせていただこうと思う(ぎこちない敬語)。次の写真をごらんいただきたい。

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図1 絶滅動物小辞典(部分)

はじめに訪れるのは(順番は私が決めている)、オオウミガラスドードーやリョコウバトの登場する「絶滅動物小辞典」である。1600年以降に絶滅が確認された動物が6ページに渡って解説され、図版は見開きごとに4点の計12点がならぶ。図版のほとんどは鳥類で、哺乳類が2点(クアッガとフクロオオカミ)あるほかは全て鳥である。

私は思うのだけど、絶滅した鳥の復元図は物悲しい。絶滅哺乳類だって物悲しいと言えば物悲しいが、化石からの復元くらい古くて不確かなものでないと、ある地域で絶滅していても他の地域では似た姿の動物が残っていたりするので、「近代になってこの地域のこのサイズの種が絶滅した」と思えてしまうところがある。剥製が残っていたりするとなおさらである。しかし鳥類は、近縁種であっても模様や体のバランスが多様すぎるゆえに、見た目の印象の固有性が高く、まるではじめから誰かの想像で書かれた動物みたいに見えてしまうのだ。そのことが余計に儚さを感じさせる。冒頭に掲げたオオウミガラスでさえ、現存のペンギンと比べると、受ける印象がかなり違う。どことなくおじいさんの古い記憶を思わせるフォルムをしている。

あるいは人間というのは、鳥の姿形や行動が気になって仕方ないという生理的特徴を備えているのかもしれない。だからこそ珍しい鳥を見たとか鳥の行動がどうだったとかが吉兆を占うのに使われたり、地域でスズメの数が減ったりしたらすぐに地方紙の見出しになったりするのである。

そんな物悲しげな古い記憶の鳥たちに誘われ、さらなる未知の怪物たちが待つページへ……。

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図2 未確認動物小事典(部分)

ここはいわゆるビッグ・フットやネッシーの世界である。4ページの小事典だが、みごとなまでに図版はビッグ・フット系のやつとネッシー系のやつで占められている。本文のほうにはさすがに他の種類(ツチノコとか)もいるけど、ごく少ない。このページを見ていると、なんだか人類は大昔からビッグ・フットとネッシー状の生き物の目撃ばかりして生きてきたような気がしてくる。雪男とシー・サーペントと言ってもいいし、大脚怪とトッシーと言ってもいいけど。このくらい地域も時代も(まぁだいたいの目撃例は十九世紀以降なんだけど……)違うのに、似たような姿の怪物が念入りに並べられると、まるっきり集合的無意識の産物みたいに見える。海原や岩山自体が潜在的にこれらの動物の姿を想起させる光学的パターンを持っているんじゃあるまいか。木肌に人の顔が見えるのと同じで。

残念に思うのは、3ページ目にはビッグ・フットの渋い横顔が三段ぶち抜きで配置されていたり、説明文中に別称の出てくるものはそれもいちいち見出しに立てていたりして、企画したはいいけどそんなに書くことなかった感が漂っていることだ。「名探偵」や「絶滅」の充実ぶりとはえらい違いである。説明じたいも油断しているフシがあって、ある生物の説明では「巨大なタコなのではないかといわれる」と書いてあり、別のには「湖面を移動する細長い丸太のようなもの」などと書いてしまっている。目撃証言を正確に描写したまでよと言われればそうなんだろうけど、これではあまりに身も蓋もない書き方ではないかと思う。それは巨大なタコであって細長い丸太なのではないかと思っても責められはしまい。

あと「アルマ」という怪物の説明にある「ソ連版雪男」というフレーズに、ふいに時代を感じさせるところがあって見事である。ほとんど地球の世界観設定だった東西対立が、一方の覇者であるソ連の崩壊によって終わりを迎えて久しいが、「ソ連版雪男」という文字列を見ていると、雪男にとってさえソ連はあったのだという気がしてくる。実際にはそんなことはなくて、彼らは国や主義とは関わりなく、黙々と吹雪にまぎれて存在と非存在のあわいをさまよっていただけなのだろうけど。

そんな雪男たちの踏み跡をたどるようにして、我々はついに『新明解百科語辞典』の最深部、神々の眠るページへ……。

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図3 キメラ的怪物小事典(部分)

ガルーダに襲われてる女禍が飛んで逃げてる構図に若干なってるショッキングなページを筆頭に、4ページにわたって、全くの想像上の生物、複数の動物の合成として描写される怪物たち(その多くは神とみなされる)の特集が組まれている。ほぼ全て中国・インド・ギリシアで、中東(シュメール~ペルシア)と日本がちらほら、といったところである。もっと中南米とかポリネシアとかいろいろ足して6ページにしてほしかった気もする。

こうして並べられると、どうしてこんなに合成獣というアイディアは世界中にあるのだろう……と考えこんでしまう。考えるというより妄想が広がると言ったほうが正しいかもしれない。古代の人々が、想像上の生き物とか、ごく僅かな人にしか目撃できない生き物の姿を語ろうとするとき、いくつもの既知の動物にパーツごとに類比して伝達するしかなかったからなのだろうか。未知の動物を描写するのに、既存の動物の名前に頼るしかないという言語表現上の制約が、地球上にかくも多くのキメラを生んだのか。それとも綿密に系譜をたどることで、一体の最初の合成獣まで遡ることができるのだろうか。


3)辞書と妄想と紙

妄想が広がる……というのは、常識的には辞書の機能としては全く求められないものではあるが、「紙の辞書」の将来を考えると、実は悪いアイディアではない。

 

もちろん携帯性、検索性、可読性において、電子辞書(専用機だけでなくタブレットなどのアプリも含む)は紙の辞書を圧倒しつつあって、その流れは今後も止まることはない。一例をあげるなら、現時点では紙が優位な一覧性でさえ、電子辞書のものになりつつある。ディスプレイの表示能力の面ではすでに実現可能で、あとは大量の文字を表示しストレスなく操作できるアプリケーションがあれば、ほとんど紙の辞書そのままをタブレットに映して利用できるようになるだろう。

ふつうの小型辞書を開くとだいたい10インチぐらいの画面に5000-6000文字くらいの文章が並んでいるのだが、今のタブレットの描画能力があれば、これをそのまま再現するのは非現実的なことではない。紙の辞書のレイアウトのまま、文章だけをスクロールするなんて芸当もそのうちできちゃうかもしれない。そういうアプリがまだないのは、電子辞書には「いくら文字を大きく表示しても物としてのサイズが変わらないのが利点」という考え方が根強くて、わざわざ小さな文字で表示するメリットの追求が遅れていたせいだろう。

三省堂はこのへんの克服に意欲的で、最近出た「エースクラウン英和辞典」のアプリ版では、目的の語の前後も一覧できる表示体系を一貫して利用するようになっている。それだけでなく、文字入力によらない検索操作の洗練と、複数の箇所を同時に開いておける画面レイアウトによって、電子辞書アプリに感じる不満を非常に効果的に解消している。

この方向に進んでいけば、紙の辞書では絶対に不可能な、頭文字順(ふつうの辞典)と分類順(類語辞典)の切り替えができて、そのための洗練されたインターフェイスを持つ辞書が実現するかもしれない。欲しい。

 

しかしそれはそれとして、どれほど本文の見た目や操作性が紙の辞書に近づいても(あるいは乗り越えても)、同じ空間に存在している物体、という存在感だけは再現できないように思われる。辞書は情報の集積であると同時に、立体的な造形作品でもあるのだ。必要な情報を取り出すという本来の用途の他に、ワンアクションで自分の抱えている個人的な言葉の体系から少し離れて、一時的にもっと大きな言葉の体系によりかかることで、頭のコリをほぐすような効果を私は紙の辞書に感じる。

読み書きを山登りにたとえるなら、背負った荷物を下ろして、岩に腰掛けて周りの地形を見るような、あるいはそのへんの動植物に目をとめるような時間が、紙の辞書を開くときには流れているように思う。電子辞書では同じことが起こるか? と考えてみると、電子辞書には使い手に高い能動性を要求する傾向があって、上と同じたとえで言うなら、地図を見てるのは同じでも、ルートを確認している、といったような、しっかりと目的がある動作という感じがする。

そんなのは読み手側の気持ちの問題だ……と理屈では考えられるのだけど、紙の辞書が持つ物体としての存在感が上のような実感をもたらしていると私は思う。電子辞書にはどうしても、自分が操作しなければこの辞書──画面に表示され、視覚を通じて人間の肉体とつながる──は存在すらしていない、という距離感がつきまとう。情報として機器に格納されているとわかってはいても、目にする辞書の紙面は私自身の操作によってその都度生成されているという感触がある。一方で紙の辞書は、私とは無関係に隣に存在していて、「ま、読むなら読めよ」という感じで開かれるのを待ち、待っている間にも気配を放っている。同じ空間に居続ける。これは「自分が見ているから世界は存在する」という世界観と、「自分がいなくなったあとも世界は存在する」という世界観との間の違いに似ている。

この違いがなぜ大事なのか? 哲学的な議論に踏み込むのはひかえつつ(畏れ多い)、ひとつ実用的な論点をあげるなら、辞書にはセレンディピティの媒介になるという二次的な(本来の目的の外という意味で)用途があるからだ。そのためには、手頃なサイズと豊かな内容という相反する要求をなんとか工夫して満たしていこうという職人的手仕事(注1)とともに、物体としての存在感が必要になってくる。

手のひらに乗るくらいのサイズの500万文字(ふつうのB6版の国語辞典がだいたいこの文字数)の書物があって、そこには通常の連想では考えられないような順番で──なぜなら隣り合った項目で共通するのはほとんど頭文字だけなので──さまざまなイメージが並べられている。それを視野の外でちょっとずつ捉えながら調べ物をしていると、意識下で勝手に連想が生まれたりくっついたり離れたりして、新たなキメラが生まれる。そのほとんどは意識下のままに忘れ去られるが、運が良ければ新たな発想の種として意識上に浮上してくるかもしれない。もっと運が良ければ発芽して育つかもしれない。頭のコリをほぐすと言ったのはこういう意味で、これはこれで立派な効用である。検索性や可搬性を犠牲にしてでも維持する価値がある。

そしてその効用──セレンディピティをもたらす祈祷書としての効用──のためには、「開き、読む」という極限まで削ぎ落とされた操作性がなにより肝心で、かつ分子的世界で具体的な量的実感を持てる姿形をしていることが重要になる。

 

いま手近にB6サイズのふつうの辞書がある人は、それをちょっと取り出してみてほしい。箱に入っていたらそこから出し、できればカバーも外して、机に置く。そのうえに手を乗せてみる。どうだろう、ちょうどあなたの手より一回り大きいくらいではないだろうか? なんとなく親しみが湧かずにはいられない。

次に右手を上に向けて脱力し、そのまま親指の付け根だけを少し動かして、ほかの指に向かい合わせてみてほしい。そのとき指で囲まれている空間は、辞書にぴったりの幅ではないだろうか? 試しに左手で辞書を持ち上げ、背表紙を右手の手のひらにつけるようにあてがう。そして自然に右手の指に力を入れる。なんて持ちやすいんだ! 間違いない、人間の手は辞書を持つために進化したんだ!

握っていた指を開き、同時に辞書のページも開く。私がいま手にしているのは、自分の脳と手の延長のように存在する炭素と水素と酸素(とその他少量の元素)の塊である。だんだんと身体の一部のようにさえ感じられてくる。しかしまた、この塊はより大きな流れ──人々が使ってきた言葉たち──の一部を切り取ったものでもある。いや、実際には切り取ってさえいない。なぜなら私が開き、読むことで、この辞書はいつでも大きな流れの一部になれるし、私がいなくなったあとも、誰かに読まれさえすれば大きな流れの一部に戻れるのだ。

そしてそこに書かれている物事の配列は、私たちがふだん思い出したり連想したりする物事の集合とは大きく異なる。自分ひとりの頭で考えているのとは全く違うやり方で、脳の底に溜まった記憶を浚ってくる。辞書のページを埋めているのは、ある言語が文字とともに発達したことによって副次的に生じたイメージの配列であって、詩とも散文作品とも違う謎めいた力を放っているように感じられる。その力はまだ十分に汲み尽くされていない。この「新明解百科語辞典」のように、原理的には古くからの国語辞典でありながら、収録語彙の範囲を固有名詞に大きく振ることで、新たな魅力を獲得するような例があるからだ。

 

「新明解百科語辞典」のようなコンセプトの辞書が更新されずにいるのは、とても残念なことだ。親辞書の「大辞林」と通常の小型国語辞典との間に挟まれた、かなり特殊な(使う人の姿勢によってはきわめて不便な)辞書であるというのは否めないが、ことばの抽象的側面を削ぎ落とし、具体的でカラフルなイメージばかりがならんでいる紙面は、ひとたびその性質を心得ると、麻薬的な楽しみとしてあなたの心に棲みつくだろう。


4)おわりに

冒頭で掲げたこの辞書の企画意図をあらためて振り返ってみよう。

① 未知の専門用語などに出会った時、かつての私たちは多巻本の百科事典を引いていた
② しかし多巻本の百科事典は取扱いに不便で、いつしか『大辞林』サイズの一巻本の大型国語辞典が百科事典代わりに引かれるようになった
③ ならばいっそ、百科語彙のみを集め、専門用語や固有名詞の検索に便利な小型辞典を世に問うてみようではないか

……というものだ。あらためて言うまでもなく、それから25年以上たった今では、前提条件が大きく変わっている。みんなグーグルで検索しちゃうから、あえて小型辞典サイズに百科語彙をまとめておいても、べつに便利だとは思われないんである。これでは復活の余地はない……と思いそうになるけど、しかしそれは、検索性という観点から見た場合に限って言えば、ということでもある。「固有名詞ばかり並んでる紙の辞書」という立体作品が、それを手に取る人間にもたらす効用というのは、あらためて見直されるだけの価値があると思う。

とはいえ、序文を読んでいると、この辞書の利便性、必要性というところに関しては、製作者側もどことなく半信半疑だったフシがあって、「大辞林」からの抜粋の他に、「中学校・高等学校の教科書から語彙を採集して、学習にも役立つようにいたしました」と書かれている。実用性を上積みしておきたい、という意欲というか色気のようなものが感じられる。しかし(当然ながら)許される紙幅の関係上、専用の用語集や小事典に比べるとかなり見劣りする内容ではあって、「これ一冊で用語集とかは買う必要なし」というものにはなっていない。辞書の記述は質実剛健、ぎりぎりまで真面目に徹するのが味だが、学習参考書としての用語集には、記述式問題のための文例集的な性質も要求されるので、語釈のスタイルが根本から異なるとさえ言える。

それでも現実的には、高校生向けの需要を掘り起こすというのが、昨今の紙の辞書の一般的なサバイバル戦略だ。増ページをしてでも用語集や小事典の代替になれるよう内容を増やし、「固有名詞(注2)ならなんでも載ってるスゴいやつ」として刷り込みを狙う……という方向性くらいしか、復活の道はないという気がする。そしてどんな形であれ復活できれば、このカラフルなイメージに満ちた書物は、誰かの手の中で無意識に働きかけ、心をマッサージする効用を発揮すると思う。そこに名探偵や怪物たちがいなくても。

 

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注1
職人的……というと昨今の統計的アプローチによる辞書づくりを否定しているように思われそうだが、そういった意図はない。というより、頻度分析に基づいた収録語の選定や語義の配列というのは、あくまで「限られたサイズで最大の効用を」という目標のために使われるツールの一つであって、有用な一冊の辞書を作る限りにおいて、それは常に「職人的手仕事」と見做せるように思う。無限にスペースの拡大する電子版とはちょっと違う役割をこれからも担ってもらう必要がある。

注2
「用語集」というのは山川出版社の「地理用語集」とかのような本のことだが、こういう本では固有名詞以外に重要な名言や概念についても文のかたちで立項されている、ということが事態を複雑にする。いずれにせよ「用語集」のような、単元別に関連語彙がまとめられた構成は辞典としては実現不可能なので、ある程度見切りをつけた語釈にしなくてはならない。「小事典」はもうすこし一般的な辞典に近いが、教科別小事典自体がすでに数を減らしつつある状況である。ただ教科ごとに何千円と出すのがためらわれるというだけで、逆に「これ一冊で全教科」3000円、というのが出たら意外と売れるような気もする。