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TBLG

日々是推敲

ラオスに何があったのか考える午後

 

 

長い前置き

この本は村上春樹の1x年ぶりのトラベル・ライティング作品だ。ファン待望の、と言っていいんじゃないかと思う。面白かったけどわりにあっさりめで物足りなくもあるので、ひとつみっちりと感想を書いて楽しみを引き延ばそうというつもりである。

いきなりの私事で恐縮だが、今でこそ「大長編こそ至高」みたいなことを独りでモソモソと思いながら、横柄な地主に充てがわれた粗末な納屋の自室の中で、古ぼけたキャビネットを改造してこしらえた二重底に念入りに隠してしまってある「1Q84」(もし地主に見つかったら農場を追い出されてしまうだろう)を夜な夜な取り出しては、ワラ布団にくるまってカベ板の隙間から漏れるわずかな月明かりを頼りに読んでいる……といったファナティックきわまりない村上主義者の私も、初めて村上作品を読んだのはブックオフの100円の棚から買った「雨天炎天」か「辺境・近境」のどちらかの紀行文だった。文庫で読んだくらいだから十年と経っていないはずなんだけど、どうしてもどっちだったか思い出せないのがわれながら哀しい。

そんな私のみじめな記憶力のことは置いといて、それ以来紀行文(「遠い太鼓」は特に長くて読みでがあって好きである)を読んだりエッセイ集を読んだりしながら、「文章はやたらうまいけど小説はそんなに面白くないんだよね」などと不遜なことを口走ったりしていたのだけど(懺悔)、どこかの時点でその小説作品にも半ば体ごと持ってかれるようにしてどハマリし、「1Q84」の発売日を「もういくつ寝ると」とばかりに指折り数えて待つような立派なジャンキーになり、当然の帰結として身持ちを崩し、妻子にも去られ、先祖伝来の土地も借金のカタに奪われ、迷える貧しい小作人として試される大地の片隅に血涙を落として暮らしているわけで、そんななか、ついに出される村上春樹のあたらしい紀行文集を読むというのは、つつましいながらも何不自由なく暮らしていた少年時代を思い出す、心温まるビッグ・イヴェントなわけである。

なんか混乱してきたな……。

冒頭で「1x年ぶりのトラベル・ライティング」としたのは、どう数えるべきか迷ったからで、共著(「東京するめクラブ 地球のはぐれ方」、吉本由美都築響一との共著、2004年)を含めると11年ぶり、最後の単著(「シドニー!」、2001年)からは14年ぶり、同じコンセプト、つまりいくつかの異なる時期の短めの紀行文を集めたものとしては1998年の「辺境・近境」以来17年ぶりということである。「だからなんだというのだ」と思われてると思われるところで予めお断りを入れておくと、この文章はかように「迷ったら全部書け」という時代錯誤な基本方針のもとに書かれている。迷惑な文通相手みたいですね。この本を手にとって(Kindleで買ったけど)、読みながらつらつらと思ったことを思ったままに書くので、このようなぼてっとしたパラグラフをウェブ上で読まされることに少なからぬ憤りを覚える向きの方々は、今すぐ深呼吸をしてこのタブを閉じてほしい。どうかナマコやホヤやヒトデを私に投げないでください。度重なる無意味な脱線を我慢して読んだからって、何かよきものが得られるとも限らない。なにしろ結論とか文脈みたいなものがうまく付くかどうかも今の私にはわからないのだ。「文脈はあとからついてくる」というのもこのブログの(というか私の)基本方針である。


その概観

この本の大きな柱は、ここ数年来「幻の新作エッセイ」的な位置にあって村上ファンからは垂涎の的(きたないね)とされてきた、JALのファーストクラス向け機内誌「AGORA」に2008年から(ほぼ)年一回ペースで掲載されてきた紀行文が全て収録されていることだ。それも例によって単行本向けのロング・ヴァージョンだそうで、これはうれしい。飛行機の匂いすらろくすっぽ嗅いだこともないような貧乏な小作人としては、おJAL様のおファーストクラス向けお機内誌なんてのは五爪二角の龍にも等しい高貴なる権力の象徴みたいなもので、当然やすやすとは手に入らないし、かといって地主を頼るわけにもいかないし(オメーのようなみすぼらしいナリの奴がJALに何の用事があるってんだ? あン?)、「そんな高級な雑誌に寄稿されるなんて、村上様は下々のことをお忘れになってしまったんだべか」などとさめざめ嘆いていた……というのは冗談で、一般販売すらしない企業の機関紙とかでひっそりとエッセイを連載するのは昔からの村上春樹の習性であることを知ってもいたので、「どうせそのうちまとめて本にするんだろう」と思っていた。そしてその書はついに我々のもとに届けられた。記念すべき日だ。信心していてよかった。

「AGORA」掲載の七編の他に、三編の文章が収められている。95年に主にボストンでのランニング生活について書かれたものと、2004年に「東京するめクラブ」の特別編と書かれたアイスランド旅行記と、つい最近「するめクラブ」の再結成企画として文藝春秋の「CREA」に掲載された熊本旅行記だ。これらがだいたい時系列順に並べられている。マラソン、するめ、JAL、するめ、という構成で、文章の感じもそれぞれわずかずつ異なる。するめはあくまでするめ風で、JALはあくまでJAL風だ。「AGORA」ものに関しては正確な時系列順ではなく、構成の都合上一部並べ替えられているということだが、どういう都合によるものかは読み取ることが出来なかった。今後の研究が待たれる。


その文体

最初のボストンのものの初出はちょうど20年前で、この本に収録された文章の中では飛び抜けて古い。時期的にはケンブリッジ滞在時代のエッセイ集「うずまき猫のみつけかた」と同じで、なんとなくその頃の文章の感じが出ていて(というか、実際そうなんだけど)懐かしい。内容的にはランニング・エッセイ集「走ることについて語るときに僕の語ること」に収録されているような話だ。確認したところ、この文章のいくつかの部分は分解されて「走ること〜」の第五章に吸収されており、けっこうな既視感に襲われたのもむべなるかなというところである。とはいえフル尺では単行本初収録だし、後のボストン再訪にも関わるし、ということで収録されたのだろう。アルバム収録時に大幅にアレンジを変えられたシングル曲が後に元のアレンジで企画盤に収録されるみたいな感じで。

ふたつの「するめ」関係の文章(アイスランド、熊本)は、書かれた時期こそかなり(11年)離れているものの、比較的ポップで親密な感じの文体が共通している。文の区切りも短く(つまり句読点がやや多い)、事実の並べ方も親切で、細かくセクション分けもされていて読みやすい。そのかわり他の章と比べて2〜3倍ほどの分量になっている。相手は(おそらく)恒常的な村上読者でもないし、分量としてはやや多めだし、ということで、テンポよく読めるよう、いつもより少し丁寧に気を使っているという感触がある。そもそも近年の村上春樹の文章は求道的にどんどん読みやすくなっていっているので、「AGORA」初出の章との差はそんなにないとも言えるんだけど、それでもなお。

文章の読みやすさについてもう少し書く。特に20年前の文章の直後に読むアイスランドの章では、けっこうなリーダビリティの落差が感じられる。これはこの本における新鮮な発見だった。なんというか、アイスランド編の最初の段落が、ほとんど身も蓋もないみたいな文体に感じられるのだ。うーん、これじゃただの悪口だな。読みやすいから良いとか、読みやすいからつまらないということではないということを言いたい。いつも思うことなのだけど、なにかとネタにされることの多い、「卓抜な比喩」やら「ポップ・カルチャーの引用」やらをアクセントとしつつ強いビートの効いた村上の文体は、ほぼ80年代まで、思い切り長めに見ても「スプートニクの恋人」までのもので、90年代以降の村上はフラットで読みやすく、どのような読者に対してもフェアで、それでいてリズミカルな文体を志向して、長いこと孤独な彫琢を重ねている。その読みやすさは、ときに村上作品のパワーダウンの現れとして、ひどいときには「売らんかな」的な振る舞いとして指弾されがちだが、それは表層的なものの見方であると私は思う。まだうまく説明する方法がみつからないのだけど、ただ読みやすいばかりの文章とはどうしても思えないというか……。

たとえば村上と同等以上の深く揺るぎないリーダビリティに到達した書き手は、私見だが、哲学者の木田元くらいしか思い浮かばない。その達成度はまさしく過激、ほとんど狂気の瀬戸際と言えるくらいの暴力的な読みやすさ、あるいは深刻な中毒性を実現している。なにも奇をてらってむやみに派手派手しい言葉を書きつけているのではない。彼らの文章の内的なリズムには、「読めるとは何か?」という疑問を恐ろしいほど長い時間考えてきた蓄積が感じられるのだ。その問いの深さと、そこから持ち帰ったものの影響力の行使の仕方において正に卓越しているのだ。このような文章家が過激でなくてなんと言えるだろうか? そして(余計なことを言うようだけど)その遠大な努力の軌跡は、自分は気に入らないのに妙に人気があるものをひとまず「売らんかな」的カテゴリに放り込んでおきさえすれば特に根拠を持ちださずとも決定的に優位に立てると錯覚する程度の頽落した精神性では決して測れない深遠さを獲得している。

ともあれ、なぜ村上はこれほど綿密に執拗にリーダビリティを追求しなくてはならないのか? それによって何が獲得されたか、何が失なわれたか、それは進歩だったのか、退歩だったのか、いかように論じるにせよ、この類まれな過剰さそのものをまずは真正面から受け止めることが、2000年代以降の村上作品の読解、あるいは受容を考察する際に前提とされるべきであると、私としては微力ながらここで特筆しておきたい。この文章は牛に乗って寺へ行って筆で書いています。上記のようなちょっと興奮し過ぎの宣言を書くまでもなく、この本のボストン(1995)−アイスランド(2004)間にみられる文体的な落差は、村上の2000年代初頭におけるリーダビリティ追求の度合いを端的に示す重要な標本として必読である。牛もうなずいてくれている。この過激な読みやすさ──「過激な平凡さ」とも言い換えられる──については、そのうちにまた考えます。

牛が「どうどう」と私を宥める。

この本の中心をなす「AGORA」掲載の文章にあっても、「よそいき」的立場は同じなわけで、するすると読んでしまえるたぐいの文章になってはいるが、やや狭い(なにしろお金持ち向けの機内誌だ)読者を対象としているからか、あるいは単行本向けにとっておいたロング・ヴァージョンだからか、一文が長く、事実と観念の間を跳躍するような論考もあり、ときにはやや生硬とさえ言える文章が含まれていて、若干の噛みごたえがある。そのいくぶん生硬な旅についての(あるいは自分について、ときに物語についての)考察は、タイトルトラックとも言えるラオスへの旅で、一つの頂点に達する。「ラオスにいったい何があるというんですか?」などとボヤきながら、水曜どうでしょう的に嫌々連れ出される情景が想像できておかしい(本文で村上自身の言葉でないことが明かされるが)、半ば冗談みたいなところを狙った表題なんだけど、同時にそれなりに思うところあって、ラオスの旅をタイトルに選んだんじゃないかなぁと、読み終わって思わされた。


その深奥

それはつまりこういうことだ。ラオスの旅行記の中盤、ルアンプラバンのホテルの夜の幻惑的な音楽──主旋律と対抗旋律の絡みあいと分裂──に導かれるようにして、彼のペンは(というか)ルアンプラバンでの土着的で仏教的な生活の観察へと進んでいく。その筆致はじわじわと膨らみを増し、トラヴェル・ライティングの範疇からはみだし、物語を(それが物語と呼ばれるべきものかどうかについては後で考える)求める存在としての我々についての思索に移行していく。

ここで具体的に書かれていることは、ルアンプラバンで村上が目にした情景であり、ルアンプラバンで村上が考えたことである。しかしそれと同時に、旅の一般的な性質であり、旅の途上で我々が考えるようなことでもある。そしてさらにその奥に、村上自身がこつこつと積み重ねてきた、あるいは掘り進めてきた、物語観のようなものが重ね書きされる。もう少し慎重な言い方をするなら、重ね読みの可能性として提示される。

そこから先、まるで村上がかねてより語っている物語の源泉──魂の地下二階──に降りていくようにして、村上はルアンプラバンで物語に取り囲まれていく。あるいはルアンプラバンを書くことでわたしたちを取り囲んでいく。すこしずつ。ものの見え方が変わり、時間の流れが変わり、かつてここにいた誰かが何かの折りに残したたくさんの小さな仏像が居並ぶ中に、心が通い合うものをいくつか見出す。その仏像がどのような祈りのために作られたのかさえ私たちは知ることが出来ない。しかしそこには確かに、想像力で接続可能な自分のかけらが佇んでいる。世界の距離感が変化する。寺院の壁に並ぶ物語絵を見て、土地の人がその由来を語るのを聞き、その土地にしっかりと土着的に染み付いた物語の豊かさに驚く。ここで説話の一つ一つが語られるわけではない。ただそこに物語があり、そこにいる人々にしっかり根付いているということだけが語られる。やがて私たちは、その土地に漂う濃密な物語の気配に取り囲まれている。目的も解釈も介在せず、そこで人々は無条件に物語を共有している。あるいは物語が無条件に人々を取り囲んでいる。優しくつなぎとめている。

村上はここで、物語を「流動するイメージ」と言い換える。いまこの本の中のルアンプラバンで私達を取り囲んでいる数多くの物語は、ゆるやかな集合体として人々に共有されることによって、人々を地縁的に結び付けている。それは一つ一つの宗教的説話が持つ効力の和を超えるものだ。宗教が体系立った規範や思惟を私たちに与えるようになる前には、目的や解釈が介在しない、物語の(流動するイメージの)共有行為が自生的に存在していたはずで、それが魂のためになにより大事なのだと村上は語る。そこでいう物語とは、私たちが通常イメージする物語と本当に同じものだろうか? 私たちがふだん物語と言うとき、ついそこに目的や解釈を求めてしまってはいないか? 村上が「流動するイメージ」と言い換えることで捉えようとしているものは、通常用いられる意味での物語より大きい、言うなれば太古の昔に塞がれてしまった共感可能性の通路を流れる水のようなものではないか? それは決して目的や解釈に手綱をとられるようなものではない、と言っているように、私には思える。だからこそ人々の魂を暖め続けられるのだと。物語の先祖返りを起こすのだ。では私たちはそれを、物語ではなく、なんと呼べば良いのか?

わからない。ここではラオスにあった何か、と言うしかない。そして私たちは表題の疑問に立ち戻る。「ラオスにいったい何があるというんですか?」

と、いったところまで妄想がふくらんだところで、私たちはバナナを差し出す猿の像に乗っかってひょいっと現実に戻ってくる。そしてその旅行記は、ごくごく平凡な旅への讃歌で締められる。照れ隠しするみたいに。この辺のさじ加減も激ウマであると私は思う。


その内容と売り方

最後に、ふつうに内容に触れた感想などもあっさりと書いておきたい。行き先は収録順に、ボストン(滞在)、アイスランドポートランド(東西)、ギリシャ、ニューヨーク、フィンランドラオス、ボストン(再訪)、トスカナ、そして熊本、となっている。ポートランドからトスカナまでが、JALのファーストクラス向け機内誌「AGORA」のために書かれた旅行記である。

アトス島で巡礼したりトルコを一周したり無人島に行ったりメキシコに行ったりモンゴルに行ったりしていた冒険作家・村上春樹のファンとしては、おとなしい旅ばかりで少しさみしくもあるのだけど、こればかりは仕方ないところだろう。なにしろ冒険作家というのは実は世を忍ぶ仮の姿だったのだし、だいたいJALのファーストクラスの機内誌であんまり冒険されても困る。「上質な大人の旅」みたいな雰囲気が前面に出ているのも、これは時の流れというものである。アイスランド編とラオス編がわずかに冒険作家・村上春樹の面影を残している。

また、この本は書籍版とほぼ同内容の電子書籍が同時発売される初めての村上作品である。「村上さんのところ」ではやりとりを一つもらさず収録した完全版を電子書籍として、良い物を適量みつくろった書籍版と同時発売したわけだが、今回はテキストは同じ内容で、章末に写真を追加した電子版が同時発売となっている。しかも少し安い。こうなると特に抵抗なく電子版が買えてしまえて良い。電子化はずっと渋ってたみたいなイメージがあるけど、いざ始めるとなかなかの策士ぶりである。