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日々是推敲

人生は思ったより細かい

 

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

 

これは聞きしに勝る変な本である。特に変わったことをしている風でもないのに、するすると姿を変え続けるような小説なのだ。この「読み味の変化」というところをとっかかりにして、この小説の魅力について考えてみる。

読み始めは、中年から老年に差し掛かる男の回想、といった感じですんなり入っていける。ちょっと俯瞰視点寄りの書き方なのかな? といったぐらいで、とくに変わっているというふうには思えない。表面的には説明口調の一本通しとすら言える。しかし読んでいくとすぐに、ただの説明とはすんなり言えなくなってくる。主人公の行動や感想についての著者視点からの叙述が淡々と続いて、会話文はほとんどなく、彼自身の内的独白もごくわずかで、現在の彼の回想に基づく(と思われる)文と、当時の彼の感じている(と思われる)文とが頻繁に移り変わるのが見えるようになってくる。時折客観性の度が増して、周囲からの見え方になったり、ある種の社会についての見解という書き方も混ざってくる。もちろんどんな小説であれ、多かれ少なかれそういった情報源の異なる文章が複数組み合わされて作られているものなんだけど、この小説の場合には、視点の違いや、その割合や、入れ替わるタイミングのリズム感が、場面の(人生の局面の)進行に伴って移り変わっていく。そんなわけで、気が付くと「あれ? こんな小説だったっけ?」という感じで読み味が変わってしまっている。しかし話自体は多少の錯綜を含みつつもずっと時系列を守っているし、読者を振りきってしまうほどの野放図な変化でもない。徐々に変化することそのものが文体であるという事実を飲み込ませて続きを読ませるパワーが、話自体にも備わっている。細部のユーモラスな(時に冷酷な)切り取り方は一貫して面白い。それで読み進んでいくうちに、いつの間にかまたガラッと空気が変わっている。こういうのを力量と言うべきか技巧と言うべきか天然と言うべきか、私には判断がつかない。

この作品の上質さ、面白さの源は、一つにはこういった空気の変わり方にあるんじゃないかと私は思う。たとえば引っ越しのあととか、長めの旅行から帰ってきたあととか、新しい習い事を始めたとか、特に理由もなく(なんてことはない。お前に言ってもわからないだけで理由はある)フラれたとか、日常の匂いがガラッと変わる節目みたいなものを越えた時の、なんとなくものの見え方が1.52ミリくらいずつずれている感じ、人生のステップが移動して、移動した先に慣れる途中のあの感じにすごくよく似ている。他人から見た自分自身がまざったり、回想している現在の自分から見た当時の自分が混ざったりという叙述の微妙な違いを巧みに抜き差ししつつ、基調としてはあくまで具体的な情景の描写に徹することで、体験と記憶と思念と考察のブレンドを少しずつ変えて、時期ごとの体感の差みたいなものが丁寧に作り上げられている。

読んでいるうちに自分自身の忘れていた記憶も喚起されてくるというのが良い小説の一つのパターンである(もちろんその逆の場合もあるわけだが、ここでは立ち入らない)。その伝で言えば、この小説は観察の記憶ではなく皮膚感覚の記憶を喚起する。「あの時こんなことがあった」というエピソード的な記憶が蘇ってくるのではなく、「あの頃こんな風に感じていた」という非エピソード的な記憶が蘇ってくるのだ。こう書くとあるいは「そういうのってフツーのことじゃないか」と思われるかもしれない。たとえば少年の活躍する小説を読むと、幼いころの感じ方がよみがえるじゃないか、と。確かにそれはその通りだ。しかしこの小説はもっと目の細かいメッシュで、ある時期の体感を思い起こさせる。あの時の引越しからあの本を読んで衝撃を受けるまでの数ヶ月とか、あのスキー旅行に行ってからあの人と上手くいかなくなるまでの数週間の夜とか、そういう細分された時期にだけ存在した空気感が蘇ってくるのだ。それもほとんど数ページごとという驚くべき細やかさで。どうしてこんなにコンパクトに効果的に書くことが出来るのだろう? 前述したようにこれが技巧なのか天然なのか私には正確な判断がつきかねるのだけど、それでもなお舌が縦巻きに巻いていく。北海道弁で言えば巻かさっていく。

村上春樹が重訳という困難(?)を圧してまで翻訳に踏み切ったという触れ込みの本書だが、氏の日本語テクニシャンぶりが全面に発揮された文章だと推察される(本来は原文と読み比べられる人じゃないと言うべきではないのだろうが、それでもなお)。テンポの良い説明のうまさがなければすぐに退屈してしまうだろうと思われる部分が多々あるのだ。それでいてじゃあ村上作品に似ているのかというと全然似てない。村上文体にも似てない(そもそも村上訳の小説はみんな村上文体になってるなんて留保なく言っちまえるのは文章的不感症の人だけである)。村上作品の熱心な読者なら面白がって読めるのかとも考えてみるが、正直言ってよくわからない。どちらかというと保坂和志の近作を熱心に読んでいる人とかのほうが「おお、こんなやり方もあるのか」という風にすんなり楽しめるんじゃないかと思う。それが証拠に、本稿ではまったくこの小説の物語や題材──村上作品はとかくこういう面から語られがちである──に立ち入らず、叙述の方法や小説観という観点からその魅力を語っている。今後もとくに筋立てを説明せずにこの本を論じる書評が複数出るはずである。「どちらかというと」と書いたのは、普段自分が「村上的-保坂的」という軸で小説を考えている癖が出てしまったためである。この話に立ち入ると長くなるので止すけれど、とにかく「ノヴェル11、ブック18」は風変わりで一読の価値のある本です。

「訳者あとがき」によれば、村上春樹がこの本(の英訳版)を読んだのは2010年の夏のことであるらしい。つまり「1Q84 BOOK 3」と「多崎つくる」の間の農閑期にこの小説によるインパクトがあったことになる。かねがね私はあの地味(失礼)な「多崎つくる」において村上が自らに課した新機軸とはなんだったのかようわからん、と思っていたのだけど、もしかするとこの地味(失礼)な「ノヴェル11、ブック18」を補助線に置くことでわかることがあるのかもしれない。ないかもしれないけど。