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日々是推敲

佐野エンブレムをめぐるデザイン談義は日本人のリテラシーを向上させる

東京オリンピックのエンブレムをめぐるデザイン談義は面白い。なにも炎上してるから楽しいぜヒャッハーと言っているのではなくて(ろくでもない誹謗やくだらない権威主義だと思う意見もままある)、創作の過程やデザイン・広告業界の内幕や商標・著作権や専門家・非専門家の界面における問題までを包含した総合的なコミュニケーションとして面白いし、こういう炎上まで行ってしまった、いわば擬制的な当事者意識を持った人が過剰に増えてしまった環境での議論を通じて、善良なる市民の全体的な知識レベルを上げる機会というのは、むしろプロたるデザイナー達こそ望むべきものなのではないかとすら思う(ビッグ・ブラザーとして振る舞い続けたいなら別ですが)。というわけで、コンペ提出案および発表までの修正過程が公開されて「いやもうこれわかんねぇな」的な雰囲気が醸成されつつある今になって、私としましても遅まきながらここに愚考をひとつ晒してご高閲を賜らんと思い筆を執った次第であります。ヒャッハー。

この件のこれまでの経緯については既に各所でまとめられているので割愛。たとえばこの記事と付随するブコメで大体のところは追えると思う。

cruel.hatenablog.com

「原案は似てなかったから盗作じゃない。でも今のところ公開はできない」的な審査委員長の発言から、一夜(だったっけ)明けて公開されてみたら、あれ、背後の円は? 背後の円こそがパクリじゃない根拠じゃなかったの? と首をひねらざるを得ないデザインだった、というわけである。そりゃ山形浩生先生も満を持して口を開いちゃいますよねというくらいのナイス送球だと思う。

亀倉雄策のエンブレムに対するリスペクトこそがベースコンセプトになっている、だからベルギーのアレは関係ないんだ、イッツァ・収斂進化・オーケイ? という、佐野自身による記者会見での説明をひとまず信じた上で、新たに公表された案についても虚心坦懐に見るというのが、ここでは一つのマナーと言えるだろう。それでこそ和の精神だろう。すると新たに公開された初期案は、確かにベルギーのアレには似ていないものの、亀倉リスペクトとしてはちょっとどうだろうか、日の丸は縮小して足元に置いときましたよ的なデザインになっているのがもったいないな、という印象になる。というか、どうしてもにわかには信じがたい感触が砂抜きの足りないハマグリみたいにザリっと残って飲み込み難い。三角部分が直線だった(=ベルギーのアレとは似ていないんだぜ)というのを示しつつ、背後の円を見せずに亀倉リスペクトがベースになったデザインだったということと両立させるなら、足元に日の丸を置くよりは亀倉デザインの日の丸に該当する部分を色で残しちまうほうがまだ収まりがいいのではないか? 例えばこんな風に。

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いや、別に公表された初期案が火消しのためのでっち上げだと疑ってるわけではないですが。あとまぁこれと比べるなら現行案の方が明らかにに尖ってて良いよね。特にパラリンピックの方なんかは。

と、ここまで書いてきて思ったのだけど、公表された修正過程は、デザインの過程としては実は時間軸が逆なんじゃないか?  つまり、一次修正案および現行案はむしろ、佐野が製作過程で描いていた案により近くて、提出された初期案はベースコンセプトの影響を排除しようとして曲線を取り去ったバージョンだったんじゃないかという印象を受けるのだ。で、提出案でのコンペ選出後に、日の丸が足元にあるのを何とかしなよ的な、目上の人の名前は一段高くして書きなよ的なジャパニーズお役所ビジネス的修正要望が出て、それを受けていじっている最中に、実はこれ、元は背後に円があったんですけどどうすか? というのを出してみたら、これがナウなオールドにバカウケして、「佐野くん、これは良いよ、なんといっても亀倉先生のデザインをベースにしてることがわかりやすいし。やはり円だよ、円。足りないのは、円」といった和気藹々とした雰囲気になって、現行案にまとまったという経緯だったのではないか。繰り返すけどまったくの個人的な想像ですからね。話九分の一くらいで聞いてね。

で、なんでこういうことを考えたかというと、「亀倉デザインの継承というなら後の円が初期案にないのは不自然だろ」という短絡的なツッコミを先にしたわけだけど、日の丸をベースにどんと置いてそこからデザインを初めて、新しいエンブレムになったぞというのが見えるところまで操作を加えてから最後に元あった円を消して、残った九分割構図を可動的なデザインとして応用展開できるぞ、こりゃあいい、集大成なう……という過程でデザインされたものだとしたら、あの直線的な三角形を含む案が提出案であるのはあながち不自然ではないな、と考えを変えたということです。変えたというと語弊があって、上記のような解釈にしたほうが自分としては納得しやすいな、ということ。

これは私が思うパクリ議論に対する最終的な回答の一つの良いモデルで、つまり「先行作品をベースにクリエイティブを乗っけて、その後パクリ元の影響を消せば、そこにはオリジナルなものだけが残る」というのを図案にしたようなデザインであると思う。どれだけ新たな発想で、かつ理解・交歓可能な範囲を踏み越えずにクリエイティブを盛っていけるかという足し算の発想と、どれだけ巧妙に元ネタや過剰な部分を取り除いて、必要なことにフォーカスできるかという引き算の発想が両立するのが創作なんであって、「パクリ=悪」というのは考えなしの短絡だというのが私の基本的な考えだ。「ものづくり」なんて言うように、足し算でかく熱い汗ばかりがクリエイティブだと思われがちけど、引き算でかく冷や汗というのも尊いし、自分の能力と作りたいものに合わせて元ネタを選びとる努力だって実は結構尊いんだ、ということを言いたい。だからこそ、むしろもっと明るいニュアンスで「パクリ」というのをどんどん使えるようになるしかないんじゃないかとも思うのだけど。オマージュとかパロディとかパスティーシュとかと同じ、肯定的なニュアンスでの「パクリ」を議論できる環境が必要なのだ。

というようなことを考えていくと、今回のエンブレムのような作品がこういう形で炎上するのは、明るい意味での運命なんじゃないかなぁと思うわけであります。このエンブレムって第一印象がもー最悪で、なんだこれはとボロクソ書いたこともあったけど、ここまで考え続けることでまぁ和解と言っていい程度には悪くないなというぐらいに、そりゃ今でもジャパニーズ権威主義的な臭いが鼻につくぜとは思ってるけど、だいたい俺が権威主義嫌いなのはこのエンブレムのせいじゃないんだし悪いよな、というぐらいに、思えるところまで来たというのも、運命なんじゃないかなぁこれ、と思うわけであります。

 

だからこれからも、この騒動を奇貨として粘り強いコミュニケーションを続けていけばいいじゃありませんか、と思う。初期にエモいことばっか言って叩かれて以来内輪でこもりがちのアートディレクターの皆さんの意見なんかももっと見たい。そりゃひとつも金にはならんけど、業界をまるごと潰してニュータウン造っちゃうぞというわけでもないんだし、引き出していこうよ教訓。

私のミニマリスト生活を紹介します

ミ      活  書   ブ   流行    便乗  す

  レス    活     毎    実    す
捨    楽
生    楽
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 宅    ド   す
余    飾     イン      せん

 

 

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玄     基    物    無   靴  傘  0
常   裸    活       雨   濡    す
入    右    トイ    扉   取    た
左    キ     居

 

 

 

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トイ    座    取     た
床   穴     直
紐     水 流
トイ    パー     もち  ミ     用達   白龍
ロー     芯    贅

 

 

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キ     す
蛇    五    取    た
基    使わ   、    外    食
食      ても、     野    穫    だけ
自     感     ね

 

 

f:id:teebeetee:20150714193658j:plain居    す

ほ     家    無
(写     ど)机   バラ     ボー   のみ
バラ    ボー      一   駄   、
椅      体      スト    多 途
空    抜    畳     魔    せん
愛    パ    もち   MacBook Air

 

 

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机    す
無印    脚     折      運   楽
ノー    白      ペン    LAMY2000
用     ほぼ    MacBook Air   済   す
この   像    Keynote     作    た
机    一   駄   、
非常     食      、
ちょっと     潤     要

 

 

 

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窓   見   景   す
見渡     草    空     気持良
山    近日     排除
色    近日     白    予定

 

 

楽    頂      か?
私    ミ      未熟   物  文字    多
他     見習       simple  たい   す
修   のみ     ね
今日     へん     ます
読     あり    した

破竹の勢いで任天堂を退職した人について考える

hachiku.biz

 

この空前絶後の勢いの退職エントリについて。書かれている通りの事実であれば、きわめて貴重かつマキシマム有意義な内部告発と言っていいんだけど、文章の端々に読んでて疑問を感じる部分が多々あったので、思うところを書きます。純粋に文章的な検討であって、私自身は全くの部外者、門の外の子ゾウであり(ぱおぱお)、特に任天堂を批判/擁護しようとか、告発者を支援/侮辱しようとかいった意思はない。「ほんとうにあなたの証言する通りの状況だったとして、そんな書き方になりますかね?」というスタンスに基づく、ブログでの暴露記事の(つまり一次資料の)批判的な読み方の一例として、十分な長さの文章に残しておきたくなっただけである。適宜文中でも明言するように、かなり疑り深い読み方の上、憶測山盛りの当て推量も書くので、そういうのがお好みでない方、「妄想乙」みたいなクールな態度の取れない、話半分で読むのが苦手な方は閉じちゃってください。長すぎると思う人は見出しだけ読んでください。三行で終わります。


「ユーザー目線評価」業務での活躍は本当か?

退職エントリの例に漏れず、元職場への熱い思いは入社時にまで遡って語り起こされる。

思い起こせば、就職氷河期の真っ最中、劣等生の私はなんとか滑りこむ形で入社できました。
入社して10年間は、ハードに関する仕事をしていました。
(中略)
そして、退職間際の四年間、私は「ユーザー目線評価」という業務についていました。
今振り返ると、この業務が一番自分の能力を発揮できた仕事でした。
(中略)
私はグループで最も若く技術とゲームに明るかったため、中心メンバーとして働くことになりました。

まずこのへんの書き方から、告発者はもともとゲーム開発を志望していたものの「劣等生」であったために不本意にも製造現場で働くことになったと考えていることが推察できる。後年「ユーザー目線評価」という部門横断的な業務が製造部門の社員に課された際には、よりゲーム開発の現場に近い仕事を与えられたことに喜んでおり、辞めたあとになっても「一番自分の能力を発揮できた仕事でした」と述懐していることにも、開発現場への憧れが表れていると言えよう。開発者との仕事を心底楽しんでいる描写は、読んでいるこちらまで心暖まるほど、幸福感に満ちている。

しかし、ここでの自己評価には疑問をもたざるを得ないというのが私の読みだ。

「ユーザー目線評価」とは、説明の代わりとして引かれているインタビュー記事の内容を読む限り、基本的には開発とは離れた現場で働く、ゲームそのものには比較的疎いタイプの社員を一般ユーザーの替わりに見立て、その率直な感想を参考にするための仕組みであると理解できる。すると、「技術とゲームに明るかったため、中心メンバーとして働くことになりました」という説明とは、部分的に齟齬をきたすことになる。もちろん業務の性質上、当初は製造グループ内で比較的ゲームに明るい人間を、開発側との窓口として配置する、といった采配があったことは考えられる。が、もともと開発志望であった人間が過剰にのめり込んで来ると、「ユーザー目線」という目論見とは外れた、中途半端に玄人っぽい分析ばかりが出てきてしまって、取り組む価値が減じてしまう、といった結果になることが、容易に予想できる。幸福感に満ち満ちたこの時期の仕事ぶりの描写からいっても、アウトプットの質の高低についてはともかく、告発者がのめり込んでいた事については間違いないように思われる。もちろんのめり込む事自体を悪くいうつもりはないですが。

このように見ていくと、以下のような「部長」からの押さえつけも、違った角度から見るべきものであるように思えてくる。

ですが、私どもの活動に理解をしていない人物がいました。
直属の上司である「部長」です。
ユーザー目線評価に係る仕事の相談(特にヒト・モノに関することです)を持ち込んでも、言われることはいつも同じでした。
「開発の仕事なんか手伝わなくていい。職務分掌には書かれてないだろう!」と怒鳴り上げるのです。
部長の本音としては、「他部門から仕事が無いと見られると困る(組織運営力に疑問を持たれる)」「開発の下請けとして扱われるのはプライドが許さない」ということでしょう。

この発言を書かれている文字通りに受け取れば、後段で告発者も述べているように、セクショナリズムに染まりきった管理職の権力誇示である。ゴリラにおけるドラミングみたいなものだね。しかしこれでは本音と発言に差がなさすぎて、管理職の言動としては不自然なほど短絡的であるという印象を拭えない。告発者が勝手に忖度した本音に基づく、一種の悪魔化を意図した描写と割り引いて受け取る必要があるように思う。状況から言って、元々の志望である開発現場に関わる仕事であったために、悪い意味で過剰にのめり込み、その仕事の本来の役割を見失いつつある告発者を、たしなめる意図を持った、常識的な注意だったとも考えられるのだ。

製造現場から生え抜きの人材であったはずの告発者が、開発こそが任天堂の華よね、とばかりに「ユーザー目線評価」に熱中しているのを見るというのは、誰がその上司になっても多少の不快感はあるだろう。加えて、「ユーザー目線評価」にのめり込んで経験を積むあまり、本来開発側が望んでいるはずの「ゲームに疎い人からの感想」が圧迫されかねない事態になってしまえば、当の開発側からの根回しとして、「(告発者)さんはよく頑張ってくれているんですけど、今の感じだと開発目線のディスカッションに偏りつつあるので、外せとまでは言いませんが、それとなくのめり込み過ぎないように注意してくれませんか?」といった風の要望を、部長職の横のつながりで受けていたことすら考えうる。しかし、のめり込んでいる最中の当人には、どんな言われ方で諭されようとも、理解のない無能上司の頭ごなしのセクショナリズムに感じられることだろう。

私が入社して、任天堂の製造部門を取り囲む環境は大きく変わりました。
(中略)
今の製造部門は、ほぼ開店休業状態です。
そんな現状のなか、任天堂の製造部門は規模の縮小や業務の整理ができないままでいます。
縮小するには、役職ポストを失う人が多いのと他部署への人材受けいれが難しい事情があるのでしょう。
(中略)
私は他部門でも働いたことがあるので痛感したのですが、役職者のレベルの低さに驚きました。
自分で部門やグループ運営の計画立案できないし、実行力にも乏しい。
ましてや、事務処理能力やITスキルも一般社員以下。その問題役職者には、例の「部長」も含まれています。
部内に残った少数の優秀な役職者とキーマン一般社員が組織を動かしているという実態です。

ここらへんのやたらエモーショナルな製造部門disも、思い込みの強い文章特有の荒れ(お前の入社が原因で環境変わったのかよ)が目立つし、全体としていかにもステロタイプ老害批判になってしまっていて、告発文に書く内容としては特異性が薄く説得力に欠ける。(どの時点で就いていたのか理解しがたいけど)他部門での職務経験を引き合いに、自部門の役職者のレベルが低いと嘆じたその舌で、「少数の優秀な役職者」の存在を認めてしまっている。働き蟻の例やら20:80の法則を引くまでもなく、もちろんそういう状況は通常考えうるものだが、だったらその優秀な役職者と結託することは出来なかったのだろうか? 単に退職前に愚痴を聞いてくれてた人に悪く思われたくなくて、優秀と言っているだけなのではないか? ついでに言っておくと、特に仕事が認められて異例の若さで管理職に抜擢されていたとかいった傍証もないのに、「中心メンバー」「キーマン一般社員」などというぼやっとした書き方で、裏付けなく自分の重要人物ぶりを自賛するのって、かっこ悪くないですか?

以上のようなわけで、告発者の退職前四年間の、充実した「ユーザー目線評価」での仕事は、本人は元々の志望に近い業務が出来てノリノリ、ただし周りの人間は彼の熱中し過ぎにハラハラもしくはイライラ、という状況だった、という風に、この記事からは読み取り可能である。重ねて強調するけど、あくまで憶測、一つの可能性として。


ハラスメントを人事異動に責任転嫁していないか?

次に問題として取り上げるのは、告発者の聴覚障碍者へのインモラルな態度が垣間見られる部分だ。

ある日の朝礼で私のグループのグループマネージャーから、異動してくる人事発表がありました。
「X日より、聴覚障害者のAさん(女性)が異動してきます。」
常識的に考えて、ゲームの評価において聴覚に障害があるのに業務として従事させるなんてありえません。
私は業務運営に責任を負ってたので、猛烈に抗議を行いました。
(中略)
グループマネージャーは部長には逆らえず、自分の身がかわいいので、イエスマンにならざるを得なかったのでしょう。部門を預かってる役職者にもかかわらず無責任です。

社会通念に照らして、「ゲームの評価において聴覚に障害があるのに業務として従事させるなんてありえません」というのはきわめて不穏当な偏見である。聴覚に障碍があってもゲームを楽しんでいる人はいくらでもいるので、そういったユーザ目線の評価がほしいと思うのは、開発者として特に非常識なことではないだろう。健常者であっても携帯機で音を出さずに、あるいは無視して遊ぶ場合もあるわけで、そういった利用環境に全く思いが至らないのも不自然といえる。

一介の素人でも「聴覚障碍を持っている人の感想も必要なんだろう」くらいは考えられるところに、当のプロが「猛烈に抗議を」したというのでは、直後によほど筋の通った説明がなされない限り、自分の活動範囲に聴覚障碍者が入ってくることへの非常識なまでの悪感情が剥き出しにされていると、読む者に感じさせるのは避けがたい。しかしこの告発者は、自分の行った反論の内容を具体的に書かない。聴覚障碍者にゲームの評価が不可能なのは、改めて説明するまでもない自明のことだと思っているからだ。ただただマネージャーを部長のイエスマンと一方的になじるだけである。ここでは一種のステロタイプを援用して、一点突破的に自己正当化を図ろうという執筆態度が透けて見える。

いずれにせよ、聴覚障碍そのものは問題にならなかったことが明かされる。が、

しかし、問題は別のところで発生します。
彼女はゲームの感想をうまく書けないのです。
聴覚障害者に見られる「9歳の峠(壁)」と呼ばれる言語表現の未熟さのため、「書く」ということに大きくつまずいてしまいました。
社内を探せば、彼女が苦労せず出来る仕事もあるはずなのに、向いていない酷なことをさせてると思いました。
どう考えても彼女の不得意なことをさせる必然性は無いのです。
彼女も真面目なので、彼女を世話をする女性社員に「ろう学校でまじめに勉強しておけばよかった」とずっとこぼしていました。時にはうまく書けないことを悔しく思い、涙を流すこともありました。

ここまでの文章に書かれている人間関係を素直に解釈すると、告発者が所属していたのは製造本部の中で「ユーザー目線評価」を主に行うグループで、上にはこの仕事に否定的かつ無能で無責任(と告発者が主張する)部長がいて、グループマネージャーは部長のイエスマンであり、その下に告発者、女性社員、新たに入ってきた聴覚障碍者が平のメンバーとして働いている、ということになる。平のメンバーの中では、(おそらく最もやる気のある)告発者が「中心メンバー」であるということから、役職的な上下関係はないものの、「ユーザー目線評価」に関しては他のメンバーからのアウトプットを取りまとめ、ある程度の評価・助言を施す立場にあったものと考えられる。「業務運営に責任を負って」いたというくらいだから。

以上のような状況では、聴覚障碍者が「言語表現の未熟さの」ために「大きくつまずいて」いるというのは、多分に告発者自身の主観的評価が含まれていると考えるのが妥当である。異動の裁量をした人物の立場からすれば、文章能力の低さを織り込み済みで、周囲の社員よる聞き取りなどを駆使しても、聴覚障碍者の感想を得るという目的のために仕事を任せる、ということは十分考えられる。その場合、「中心メンバー」の協力さえあれば、挫折するほどの無力感に陥るような事態は想定されないだろう。なにしろあんなにこの業務に対して熱心なんだから、きちんとコミュニケーションを取ってうまくやるだろうと。

こう考えていくと、求められている仕事の質の変化を一切考慮せず、自分がやってきたのと同質・同等のアウトプットを新入りにも要求するのが当然と思い込んだ、告発者の非情な振る舞いによって、彼女は追い詰められたのではないかとすら想像しうる状況である。だからこそ、心労を女性社員にこぼすにとどまったのではないか。頭ごなしに「向いていない酷なことをさせている」と決めつけている差別主義的な告発者とは、最後に至るまで適切なコミュニケーションが取れなかったのではないか。

そしてここで、まかり間違えば人命に関わる重大な不祥事が暴露される。

ある日の午後、彼女が自席から消えました。
世話役の女性社員の携帯に、睡眠薬を大量に飲んで自殺することをほのめかすメールが届きました。
関係者が必死に探したところ、消えた彼女は駐車場に止めてある自分の車の中で薬を飲んで、目をつぶっていました。
車の外から呼びかけても音が聞こえず通じないので、無理やり鍵を開けて助けだしたのですが、彼女の様子から大量の睡眠薬の影響があったようです。

会社のマニュアルでは、総務部門が救急車を呼ぶことになっているのですが、現場に駆けつけた「部長」と総務のグループマネージャーが結託し、事が大ごとになるのを避けるため救急車の出動を要請しないことを決めてしまいました。
総務のグループマネージャーが地元の病院に運んだのですが、救急扱いでは無いので待合室で診察の順番が来るのを意識がもうろうとしながら待たされて、胃洗浄の処置を受けて自宅へ返されました。
(中略)
総務のグループマネージャーは事業所労働者の安全衛生や生命を守る役割があるにも関わらず、不祥事の発覚を恐れて救急車を呼ばないという人命軽視の判断がまかり通すのは酷い話です。
(中略)
そして、このような事態を起こすことになったハラスメントまがいの人事異動を決めた「部長」は全くペナルティを受けていません。これも腹立たしい話です。

発見に至る経緯からいって、睡眠薬の過剰摂取がほぼ確定的な状況でありながら、不祥事による処分を恐れて救急車の要請を避けたという「部長」と「総務のグループマネージャー」の判断は、厳しい処分が下されてしかるべき人倫に悖る行為だ、という主張が展開されている。だがこの部分にも、読んでいて納得しがたい記述が多く含まれており、告発者の証言をそのままの事実と受け取ることは難しい。

捜索の様子については「関係者が必死に探したところ」としか書かれていないが、想像するに、直接の同僚である女性社員、告発者、その他同じ部屋にいた数人くらいがすぐに思い当たる場所へ走り、そのうち一人は管理職へ連絡にあたり、適宜異常を察した人に応援を頼む、といった程度の規模であったと思われる。具体的な服用量や経過時間についての情報はないものの、過剰摂取後朦朧としながらも昏睡まではしていないという状態で発見できたということから、おそらくは所持していた全量の睡眠薬を衝動的に一気に飲み、事後三十分程度で発見された、といった状況だったと推測できる。かなり雑な推測だけど、家族への連絡や全社的な騒動の記述が現時点では無いので、自殺予告メールのあと何時間も足取りがつかめなかったとは考えにくい。

ここで告発者は、会社のマニュアルを楯にして、発見直後自分が直ちに救急車を呼ばなかったことを当然のように書いているが、それは睡眠薬の過剰摂取が直接死につながると信じている人間の行動として、正しいといえるだろうか?

逆に、発見者からの連絡で駐車場に駆けつけた部長たちの立場からすると、第一発見者が直ちに救急車を呼ぶ判断をしていないことや、朦朧としながらも意識を保っている状態の彼女を見て、念のため病院に連れて行けば十分という判断を下すのは、あながち不自然とも言えないのだ。通常病院で一度に渡される量の睡眠薬を一気に飲んだくらいでは致死量に達しないからだ。周囲に大量の飲酒をした形跡や、中身の不明な薬物の包装が散乱している、といった状況で発見されたなら別だが、睡眠薬のみに関する限り、一気飲みには十分な対策が施されていて、他の既往症との組み合わせによるなど不幸な例外を除けば、致死的なものではない。このご時世、部長クラスの年齢であれば衝動的な大量服用についての知識や経験があってもおかしくはないし、保身を優先したのであれば、「まず大丈夫だとは思うけど、のちのち人命軽視ということで不祥事になったら嫌だから、念のため救急車を呼べ」という判断を下すほうがまだしも自然だろう。この解釈ならば、病院に到着後、朦朧としつつも順番待ちの上処置を受けたという説明とも整合性がある。受付で重篤な状態が察知されたなら、病院側がその時点で急患扱いにしない理由はない。病院で順番待ちにされる程度の容態だったのであれば、救急搬送を不要と判断したことが即ち人命軽視の暴挙、とは言いがたい。

ただしこの理由による擁護を告発者にも適用することは出来ない。繰り返しになるが、自ら書いている通り、睡眠薬の一気飲みで人が死ぬと信じているからだ。信じていたのなら、自ら通報するのを躊躇って、部長やマネージャーの判断を待った理由は何だ? 実にこれがマニュアルだというのだ。これこそ自己保身だという誹りを免れ得ないのではないか? 現場への到着が遅れるかもしれない総務の判断を要求し、緊急時に第一発見者による通報を支持しないという不可解なマニュアルが制定されていることに、なぜ事後的にでも怒りの矛先が向かないのか? 自らの不作為を正当化する限りにおいては、人命軽視のマニュアルも正しいとされるのか?

そして返す刀でという感じで、告発者は再び「部長」の行った人事そのものがハラスメントであり不適切だったと怒っている。適材適所を考慮しない無能な人間の采配であって、追い詰めて退職させるためだったと言わんばかりである。当然そういうことも考えうるだろう。だがこの告発の書き方では、「私のグループに聴覚障害者を持ち込んだのがそもそもの間違いだったのだ」と、差別感情を吐露していると読まれても何ら不自然ではない。むしろそっちが本音なんだろうと。

もちろん、「未記載の事実」を含むという関係機関への通報内容や、任天堂の応答、あるいは内部調査の結果が表に出ないことには、私の言っていることは全面的に憶測でしかない。しかし、一貫して一方的に「部長」の人事を問題視し、聴覚障碍をもつ彼女のプレイレビューを業務に反映させる仕事を任されていたという可能性を一顧だにせず、聴覚障碍が理由で言語能力に難のある人間のテストプレイは不要/不可能と断ずるという、常識的には考えにくい強硬な態度には、やや過剰な攻撃性が表れているように思う。仮に彼女に業務上の能力が不足していたというのをそのまま信じても、聴覚障碍を前面に押し出して説明する必要はどこにも無いからだ。「だって障害者だったんすよ? 使えなくて当たり前ですよね?」という前近代的でインモラルな共感要求を、自分の立場の正当化に援用していると読むのが妥当なところだろう。自らが職場で無意識下に感じていた疎外感や、同僚を自殺未遂に追い込んだ罪悪感を圧し殺し、エリート幻想を維持するための、一種の代償作用なのではないかと疑いを持って読めるところだ。

有り体に言えば、自分が持っていた偏見に起因するコミュニケーション不全が火元となって不祥事が起こったことに耐えられず、そのせいで退職せざるを得なくなったということを認められず、「無能な上司の放漫かつ非人道的な職務態度および使えない障害者」、という設定に責任転嫁することで、辛うじて自尊心を保っている姿が、文章の背後に浮かび上がってくるのだ。繰り返し強調しているように、追加情報がなければ事実についての正確な判断は出来ない。しかし、この告発文を丹念に読む限りにおいては、通常持ちうる公平さに欠けるほど他責的で、自己弁護のためには細部を見落としがちな人格を感じずにはいられない。


退職以外の選択肢がなかったとは思えない

事件の記述以降も、告発者は「部長」の不適切な行動、あるいは職務上の失敗を列挙して攻撃を加え続ける。女性契約社員と真っ昼間からお籠もりになっているなんてのは、当然想像しうる不適切な行動が事実であれば告発されるべきことだろうし、その事実がなくても首を傾げざるを得ない状況であることには同意できる。一方、「部長」の決済した案件の失敗例として挙げられているものについては、おそらく社内ではよく知られていることであって、この告発者が「部長」の無能ぶりをあげつらってデモナイズしよう、リークに至った自分が常識的で正義であるという演出に使おう、といった意図以外には特に役立っていない。ともあれ、かように「部長」の下で腐敗しきった職場から逃れるべく退職したのだ、ということについては、退職エントリの主旨としては普通だし、まぁよかったと言うべきだろう。誰にだって合わない職場というのはある。卒業おめでとうございます。

しかし、である。

(当然、社内異動を考えましたが、私が抜けたらグループが休止状態になるのは予測でき、同僚に迷惑が掛かってしまいます。そこまでの身勝手は出来ませんでした。)

この記述の意味するところが私には理解できない。異動で抜けたらグループが休止するので迷惑かかるけど、退職でやめるなら迷惑はかからないのか? わからないので時間を置いて何度か読んで考えたんだけど、「ユーザー目線評価」という業務そのものは、どの個人がいなくなったって開発現場以外の自社の人間さえいれば存続可能と考えられるし、異動だと休止で退職だと休止しないというのは、せいぜい逆なんじゃないかとしか思えない。元メンバーが退職しないで他の部署にいる限り、かつての同僚は飼い殺しにされるという謎ルールでもあるのか? それとも「俺が他の部署でサクッと出世して、俺を認めなかったお前らグループの仕事なんて社内政治で休止にしてしまうぜ」みたいなこと? 自分で書いててわけがわからなくなるくらい徹底してわからん。

ここでまた想像の幅を広げて考えるわけだが、おそらくグループの休止云々というのは告発者の内的かつ未完成な理由付けであって、実際には異動のみを厳命されていたのではないか。人間関係での失敗を認めて、グループを離れても任天堂内に別の職場を得るか、逆らって退職するかの二択を迫られて、プライドを優先するために退職を選んだ、といったあたりが客観としては事実に近いのではないかと思われる。もちろんそういうのはむやみに卑下すべきことではなくて、外から見れば多少の無理があっても自我を守りつつ、新天地を求めて行動を起こす、という決断は、常に尊重されるべきである。告発のタイミングなんかを考えると、まだ半身囚われているような気もするけど、まぁこれを境に未練を振り切るのがいちばんであると思う。

以上のように、ほぼ全面的に告発者に批判的なトーンで件の告発文……というか退職報告を読んできたが、告発の大意である、製造本部の組織転換の遅れだとか、やや旧弊なマニュアルの存在(実のところ何のためのマニュアルなのかもようわからん)なんかは、まぁ事実だとしたら直したほうがいいよね、と思う。始めに書いたように、任天堂についても告発者についても、特に非難しようとか擁護しようという意思はない。ついでに言っておくと、「部長」に対するかなり過激な個人攻撃を含む告発だとは思うけど、やや心身損耗の気配が感じられる文であるとも思うので、これを根拠に「最強の法務部」だかが全力で個人を潰しにかかろうとしたら、個人的にはちょっと引く。告発者自身に聴覚障碍者に対する配慮が欠けてるんじゃないのという点と、文章の端々に見られる多量の不備から言って、証言通りの事情があったとは到底信頼しがたいから、カウンターインフォメーションを待ちましょう、というのが本稿の主旨であります。

クソ長い上にどっちつかずの結論で、ブロゴスフィアのマナー的にはブルシットみたいなエントリかもしれないけど、まぁとにかく。

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(後編)

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(前編) - TBLG

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(中編) - TBLG

の続き。

(3)普及帯でのいくつかの変更

現行シングルモルトと鶴の終売に比べればインパクトは小さいが、日常への影響は大きい普及価格帯での変更について。ざっくりまとめると、ブラックニッカへの(さらなる)資源集中、および(原酒としての)カフェモルトの減産、といった方針が見て取れる。

 

ブラックニッカ・シリーズ

ブラックニッカ・シリーズは今年唯一全面的に値上げのなかったブランドで、8年が終売になる一方でいち早く新商品(ディープブレンド)が投入されるという、ニッカ普及帯のメインブランドにふさわしい厚遇が施されている。最廉価でニッカへの(あるいはウィスキーへの)入口となるクリアがあり、ブラックニッカの原点としてのスペシャルがあり、その両脇から華やかで飲みやすいリッチブレンド、よりスモーキーでニッカ沼への(あるいはウィスキー沼への)導線となるディープブレンドが両脇から支える、という布陣になっている。なんとも合理的という感じがする。

新作のディープブレンドについては、低価格帯としては久しぶりにピーティ寄りのブレンドで、スペシャルに傾向が似ているものの、押し寄せるような甘みを抑えつつ長いラストでゆっくり楽しめる、ニッカ新時代のスモーキー・サイドを支える一作、という仕上がりになっていると思う。ラベルがダメなパワポみたいなのが残念ではあるけど。金色のローリー卿はまぁいいとして、なにあの安っぽいグラデーションと後ろの変形「OLD」と何かの45周年だと誤認させたいみたいな度数表記……。要素多すぎて渋滞してるよ。

これもまた勝手な想像ですが、比較的歴史の長いクリアと、原作に近いスペシャルは今後も定点として置き続け、◯◯ブレンド、と冠された最近のものについては、利用可能な原酒や市場の動向に応じて速やかに変更出来る体勢にして、柔軟に対応していく、という戦略が垣間見える布陣であるように思う。こんな分析書いて、あとであっさりスペシャルが終売になったりしたら恥ずかしい気もするけど……まさかディープブレンドはスペシャルの後継じゃないよな……まぁ消さないでおきます。

ブラックニッカ8年の終売については、言うまでもないけど長期熟成原酒の温存のためだろう。今8年ものを作るには、東京オリンピックの時期の12年物の原酒を使うことになる……と考えると、少しでも温存しておくのが上策という気が部外者ながらしてくる。8年は2002年発売の比較的新しい(今回終売になるブレンデッドではもっとも新参)商品で、クリアブレンド(当時)のような飲みやすさを保ちつつ華やかな甘み・香りと熟成感を付加した、スモーキーなスペシャルとは異なる性格の兄弟酒、という立ち位置だった。ある意味キャラかぶりの後輩ことリッチブレンドがクリア並みの活躍をしていく中で、ひっそりと売り続けられていた8年も、ここにきてついに役目を終える、といった感じだろうか。お疲れ様でした。

 

「裏の顔」たち

ブラックニッカ・シリーズがニッカ普及価格帯の表の顔だとするなら、長年地道に飲み継がれてきたハイニッカ、オールモルトモルトクラブには裏の顔、前線をピリッと締めるベテラン兵という趣がある。こちらについてはハイニッカ、オールモルトは20%ほど値上げの上継続、モルトクラブは終売ということになった。

ハイニッカは原作が1964年発売、現行品のデラックスは84年発売という、G&Gが終売になる今となっては現存最古(ブラックニッカスペシャルは1985年)のブレンドといえる。といってもここしばらくは、よほど品揃えの良い店でも業務もしくはヘヴィ・リピーター向けの4Lペットがあるだけということが多かった。竹鶴政孝が晩酌に用いていたとか、新川川の水で割ったハイニッカを飲んで宮城峡蒸留所の立地を決めたとか(訂正:ブラックニッカだそうです)、伝説的なエピソードは伝え聞いていても、なかなか手に入らない一品だったのだ。

しかし昨年から、「マッサン」効果で竹鶴本人に注目が集まったこともあってか、720 mLの通常ボトルをその辺のスーパーで見かけることも多くなった(うちの近所のサツドラにさえある)。あるいは単に「初号ハイニッカ復刻版」で宣伝コストをかけるから、そのアフターフォロー向けに拡販・継続しているだけなのかもしれないけど。ドラマの年代に合わせて2級酒の復刻版を出すなら丸びんニッキーじゃないのか、みたいな疑問はヤボである。グレーン主体のさっぱりした飲みくちでありながら、芯にはふくよか、おだやか寄りな性格のモルト原酒をしっかり感じる味で、今なお多数の新たなリピーターを集める実力は十分あると個人的には思う。大瓶がなくなるのは残念だけど、多少高くなっても売り続けるという判断には感謝しかない。ありがとうニッカ。

オールモルトは1990年発売、製法としてはグレーン・ウィスキーでありながら原料はモルト、という変わり種「カフェモルト」をブレンドに加える、「オールモルト製法」という新機軸を打ち出した、珍しくニッカの前衛性が光る一品である。高級酒としてのシングルモルト、ピュアモルトの流行によって「原材料、モルト」という表記に高い付加価値があったわけで、当時の広告では「ぜいたくな」製法という触れ込みで、味としてもギリギリまでピュアモルト(ブラック・レッド)に寄せた印象のあるオールモルトは、伝え聞いたところによると、「女房を酔わせる」という特殊技術によって、90年代の家庭向けウィスキー戦線にあって「角軍」や「だるま軍」を向こうに回して華々しい戦果を挙げた伝説の部隊ということである。モルトクラブはその5年後に発売されたいわば弟分で、モルト原酒(ややこしいけど、ポットスチルの方)の割合を減らしてコストを下げたもの。「ハイニッカ」のオールモルト製法バージョンといった立ち位置の商品である。

日本のウィスキー製造各社は、原料であるモルト(乾燥済み発芽大麦)をスコットランドの製麦会社からの輸入に頼っている。円安の進行によって原料コストが上昇する中、もともと高価なモルト原料を、「モルトの香りを残したグレーン・ウィスキー」の製造に用いることは従来よりずっとぜいたくになっているわけで、カフェモルト原酒を必要とする製品ラインナップは大きく値上げするか、もしくは削減、というのはやむをえないところだろう。もともと高価格帯の伊達、カフェモルト(ややこしいけど商品の方)は値上げの上温存、普及帯(というにはちょっと高くなるけど)にはオールモルトを残し、最廉価でありながら若いカフェモルト原酒を多く使用するモルトクラブを終売としていることには、カフェモルト原酒の減産は避けられないができるかぎり維持しよう、という意地が感じられる。

 

食中酒路線は撤退なのか?

もう一点気になる変化を挙げておくと、大瓶の大幅な削減が行われている。商品によって用意されたサイズはまちまちだが、現行ではブラックニッカスペシャル、オールモルト、ハイニッカ、モルトクラブにあるダブルサイズ以上のボトルがすべて終売になる。クリアの大瓶各サイズと、リッチブレンドの4Lは継続される。現在では業務用ニッカはほぼクリアへの移行が済んでいると思われるので、消費シーン的にビールや日本酒や焼酎との喰い合いが激しい、食中酒路線のハイニッカ、モルトクラブは飲食店ではお役御免ということなのかもしれない(モルトクラブは完全終売ですが)。ボトリング設備の稼働が、もっとも需要のあるブラックニッカ・シリーズだけで手一杯、という事情もありそうである。

ただ食中酒路線(といっても、私が勝手に言ってるだけなんですが)のウィスキーとして、クリアやリッチブレンドに、ハイニッカやモルトクラブの代わりが務まるかというとやや疑問がある。

というのも、ブラックニッカ・シリーズは、飲みやすさを重視しているクリアやリッチブレンドにあっても、硬質ともいえるダークなコゲ香がシグネチャーとして強めに維持されているブランドであると思うのだ。これはおそらくニッカならではの石炭直火蒸留に由来するもので、ニッカの独自性というか、今となっては再編・合理化の時期を経た本場スコッチよりも古式ゆかしい製法を維持しているという、余市蒸留所の魂を伝える香味である。だからこそブラックがニッカ普及帯の主力製品にふさわしいわけだが、反面、「ハイボールで味の濃い料理と合わせる」といったシーンでない限り料理との相乗効果を生み出しにくい。合うのは焼き肉、中華、エスニック、あるいはなんかよくわからない創作料理、といった世界観である。ハイニッカ通常ボトルの再普及という布石は残しているものの、和食の伴奏としてのウィスキーはサントリーに再度明け渡す形での撤退、みたいな雰囲気になってしまっていて残念である。まぁ今さら食中酒=和食に合うもの、という認識も前時代的な気もするし、住み分けといってしまえばそれまでだけど、ライバルというの(略

 

ハイニッカ礼賛

以上のようなわけで、当ブログではハイニッカを応援しています。「幻のボトル」だった頃にはどうしても、通好みという評判の一方で、伝説が先行してるだけで味としては旧二級なんでしょ? といった見下げたイメージを持たれがちだったが、去年からの再普及で大幅に払拭されたと思う。今後は、ブラックニッカ・シリーズの守備範囲外を引き受けるシリーズ展開もアリなんじゃないかとすら思う。最後にハイニッカへの賛美を思うさま謳いあげてこの稿を終えます。

ハイニッカのボトルデザインはレトロかつシンプルで、文庫で言えば岩波文庫、スニーカーで言えばオニツカタイガー的にかわいいし、ノームコア層が夕食の締めから食後のリラックスタイムにかけて少量飲むといったデイリーユースに似つかわしいという気がする。一度ハイニッカを愛好するようになると、一足飛びに竹鶴やシングルモルトを試した場合なんかにも、高級酒が持つ長期熟成ならではの懐深いあたたかみが、ハイニッカの芯にあるおだやかなモルト原酒の味わいから地続きであり、長い時間をかけて得られるものであると了解しやすいと思われ、初心者のエスコートという観点からも優秀なブレンドである。

また、上述したブラックニッカ・シリーズ特有のダークなコゲ香が不要な新しいブレンドを普及価格帯に投入する際には、ハイニッカ・シリーズの限定品として展開するのが合理的であると私は考える。なんとなれば終売になったモルトクラブなんかも、「冬季限定 ハイニッカ・オールモルト・エディション」みたいな感じで復活させてくれたら、出てる間は買う。例えば新しい栽培種の大麦やカスクの材を試すとして、それらによる味わいの差に目を向けやすいブレンドにするには、ブラックニッカ的な味にしづらいこともあるだろうし、かといって新たなブランド名を立ち上げるほどのコストもかけられない。そんな時にはハイニッカのバリエーションとして出すのが便利だと思うわけである。現行品と、限定品のエディションを並べて展開することで、多くの人が飲み比べて製法による違いを確認し、全国流通規模で原酒作りのロマンを共有するという楽しみ方を広めることができるのではないか。それによって若い原酒の消費ベースを押し上げて、ブーム以降の経営に余裕を持たせることができ、後の長期熟成原酒の確保に貢献できるのではないか。この仕事は、最小限のニッカ性を突き詰めて成立したハイニッカだからこそできるのだ。ちょっと激しい妄想をしておくと、新入社員の頃に出たハイニッカのとあるエディションで親しんだ香りと、15年後にシングルモルトの一部として再会できる、なんてのもありうるのだ。とてもロマンチックだ。

たとえば昨今の異常気象の時代にあって、全体的な農産物の供給量を維持するため、様々な農産物で栽培品種の多様化の試み(新開発の品種のみならず、古代種の復活も含めて)が進められており、これらを活用してより良いウィスキーを作り続けるという新たな競争が始まりつつある。時代の要請とはいえ、ともすれば正統なウィスキー作りの破壊と見られかねないこれらの試みにあたって、言外に旧時代との連続性、伝統との調和を示すことの出来るハイニッカというブランドネームの活用は有利に働くのではないかと考える。他にも画期的な特徴を携えた新規メーカーの参入や、常にある消費者の嗜好の変遷など、ウィスキーをめぐるどんな環境の変化に直面しても、「ハイハイ」と気安い挨拶で対応し、楽しみながら試行錯誤して、ウィスキーづくりに組み込んでいける、という自信を表現するのにうってつけではないかと思うのだ。エントリークラスとしての親しみやすさを表現すると同時に、ニッカに伏流する進取の気性をも表現するブランドネームとして、これからも長く活躍していってほしい。

 

***

 

追記(7/4)

宮城峡蒸留所の建設地選定の際、竹鶴政孝が新川川の水で割って飲んで適地との確信を得たというウィスキーは、ハイニッカではなくてブラックニッカでした。公式サイトにも記述があるので間違いはないと思われる。謹んで訂正いたします。

こうなるとハイニッカ説についても出処の検討がしたくなってくる。いくつかのブログ(特に名を秘す)でこの話に触れているところをチェックすると、半々か、訂正含めてブラックニッカ説が多いという感じであって、その由来を辿ることは出来そうにない感じなので、そのうち文献を漁る必要がある。そこまでするかという感じでもあるけど。

 

ニッカ第二の蒸留所誕生秘話 - ニッカウヰスキー公式サイト

宮城峡蒸溜所の紹介「蒸溜所建設こぼれ話」 | NIKKA WHISKY

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(中編)

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(前編) - TBLG

の続き。

(2)高級ブレンデッドの一本化

 

リストで次に目立つ変化は、G&G、ザ・ブレンド、鶴17年、といった、ブレンデッド・ウィスキーの高級商品が終売になっている点だ。普及価格帯(現行品で1500円くらいまで)を上回るブレンデッドは、スーパーニッカとフロム・ザ・バレル、そして昨年発売のザ・ニッカ12年を残し、半数が整理されることになる。いままでが乱立気味だったんであって、半分にしてちょうどいいくらいだ、という雑な感想もつい抱いてしまうけど、まあとにかくそれぞれ見ていこう。

G&Gは、今でこそ2000円弱の手に取りやすい商品だが、スーパーニッカ以前のフラッグシップであったゴールドニッカの流れを汲む、余市モルト主体の特級ウィスキーの味わいを今に伝える銘柄である。しかし、発表年代のイメージ的にスーパーニッカとかぶっているきらいはあるし(「60年代特級組」、とでも言おうか)、なにしろ向こうさんは「マッサン」効果で復刻版まで出て知名度がグンと上昇してるので、「マッサン」以前からレアキャラ化が著しかったG&Gが終売というのは、まぁやむを得ないという気はする。みんな余市モルトをガツンとキメたいときにはシングルモルトを飲んでたし。もちろん、大昔のブレンドを細々と存続させるのもニッカの美点の一つではあるのだけど(Fマウントを堅持するニコンみたいですよね)、そうも言ってられない状況なのだろう。

ザ・ブレンドは、1986年の発表当時は「鶴」に次ぐ二番手の高級ウィスキーで、84年のピュアモルト・ブラック/レッド、85年のフロム・ザ・バレルに続く、これも勝手に名付けるなら「80年代シンプル・ボトル組」の三男である。発売当時こそフロム・ザ・バレルの倍の価格(5000円)の高級酒だったが、今は徐々に下がっておよそ3000円に落ち着いている。しかしこれも、G&Gほどではないにせよレアキャラ化が進んでいたし、さらにボトルの見た目的にかぶりつつも価格的には弟分だったはずのフロム・ザ・バレルが、異常に華々しい受賞歴を持つ超ハイコスパの国際的人気商品に育ってしまった今となっては、これまた終売やむなしという気がする。

一方、これは思い切ったことをなさいましたな、というのが鶴17年の終売である。初代「鶴」の発売は1976年のことで、79年に逝去した竹鶴政孝のブレンダーとしての最後の作品と言われている。愛妻リタへの追悼を込めてブレンドに打ち込んだスーパーニッカ、晩酌に常飲していたハイニッカに並ぶ、大げさに言えば「三大・竹鶴伝説を今に伝えるボトル」という感じで、まぁ実際はそんなに飲む機会がない人であっても、ニッカファンの心にしっかりと刻み込まれた銘柄なわけである。こういう判断は、経営陣やブレンダー・チームにとってもやはり断腸の思いなのではないかと想像する。机くらいは叩いているかもしれない。「きのう夢枕にさ……」みたいな話もあったのかもしれない。

「鶴」については、レギュラーラインナップから消えたあとも、高級ブレンデッドの周年記念ボトルとして、それこそ2019年の竹鶴政孝没後40年あたりで出して、ブランドネームを維持して欲しいという気持ちもある。永遠の記念碑みたいな感じで。後発の人気者である竹鶴ピュアモルトとまぎらわしいのが難点といえば難点なので、やめたくなる気持ちもわからないではないですが……。

現時点での情報では、今回の終売・値上げによって、ニッカの高級ブレンデッドは2500円ほどのフロム・ザ・バレルとスーパーニッカ、6000円ほどのザ・ニッカ12年、の三種類になる。永遠のライバルことキヤノン……じゃなくてサントリーの高級ブレンデッドは、リザーブ、ロイヤルの上に、NAから30年(!)まで取り揃えた「響」シリーズという統一感のあるラインナップになっていて、これはやはりわかりやすい。わかりやすくゴージャスである。「ジャパニーズ・ゴージャス」と呼んであげたいくらいだ。すでに12年もの同士で切り結んでいる状態であることを考えると、ザ・ニッカも順次NA、17年、21年と揃えていき、高級ブレンデッドとしてブランドを確立していってほしいところである。

原酒不足の状況から言って、鶴17年の後継といえるザ・ニッカ17年、21年をすぐに出すのは難しいと思われる。来年くらいまでに急いで出しても数量限定、ということになりそうである。一方で若い方は、これは全くの妄想なんだけど、たとえば世評の高かった初号スーパーニッカ復刻版に近い味のものを一つの定点として、4000円弱くらいでザ・ニッカNAとして普及させることが出来れば、いまいち定着しているとは言いがたいザ・ニッカが、ニッカ新世代の旗手としてファンに長く愛されるブランドに成長するための、最良の礎になるんじゃないかと思う。もちろん全く新しいザ・ニッカNAというのもそれはそれで期待をそそられる。ザ・ニッカの冒険はこれからなんである。

ヴァテッド・モルトの竹鶴シリーズを主力高級酒に据える傍らで、わざわざ高級ブレンデッドを拡充することに、どのくらいリソースを割けるかというと、悩ましいところではある。今の商環境では、モルト原酒に余裕ができたら、シングルモルトの復活に先に使うのが当然と判断されるだろう。いましばらくはザ・ニッカ12年の一本立ちが続きそうな気もする。

しかし今回のシングルモルト終売に対する反応を見ていて思ったのだけど、やはりシングルモルト人気の定着とハイボール・ブームの合わせ技というか、ブレンデッド・ウィスキー=割って飲むための安物という、誤解を含む悪いイメージがついてしまっているのはなんともやりきれない。やりきれなくてモルトクラブも喉を通らない(二杯目)。この話はかなり長い脱線になるけど、ちょっとノッてきたので書いてみることにする。

ニッカ大フィーバーを牽引した「マッサン」でも、(わかりやすさに配慮する必要があったとはいえ)グレーン・ウィスキーのグの字もろくに出てこない、ポットスチルから出てきたスモーキーなものだけがウィスキーだと言わんばかりの、やや誤解を招く構成だった。しかし実際の竹鶴は、モルトだけに生涯こだわり続けたわけではない。ドラマでは終着点であるスーパーニッカ(劇中のスーパーエリー)の発売後、当時の西宮工場に、クラシカルな連続蒸留器であるカフェ式蒸留器(後に宮城峡に移設)を導入し、より本格的なスコッチ・スタイルの(つまりグレーン・ウィスキーにも本場と同じ製法を採用した)ブレンデッド・ウィスキーの追求に邁進している。

シングルモルトの世界的な普及というのは竹鶴の生きた時代より後の(1980年代以降の)、グローバルな情報過多の時代の現象であって、蒸留所のある町に住んでいるのでもない限り、スコッチの王道は今も昔もブレンデッドなのだ。

ブレンデッドはその製法上、大量に必要な普及価格帯の商品を生産しやすく、定義的に量の限られた原酒を用いる必要があるシングルモルトに比べて、基本的に廉価になっているのは事実だ。加えて、ブレンデッドの発明によってウィスキーが世界的に普及する前から存在していたのも、今で言うシングルモルトなわけで、「ウィスキーの原点」と形容されるのは仕方ないところがある。しかし、それをもってブレンデッド・ウィスキーというカテゴリー自体を、「原点にして高級品であるシングルモルトが手に取れない人のための、薄めた二級品」のように扱うのは、明白な誤りである。

残念ながら近頃では、ウィスキーファンとはシングルモルトを嗜む者のことで、グレーンなんてのは水増し用の醸造アルコールをちょっと格好つけて言ったもの、ぐらいに思われているんじゃないかと疑いたくなるような、ひどい意見を耳にすることがある。この狂信とも言うべきシングルモルト優位の風潮には、いささか眼高「舌」低の趣があると私は思う。ブレンドにおける原酒選択の幅が狭いシングルモルトは、その特徴の多様さ、地物感を味覚的な冒険の対象としたり、蒸留所の巡礼を旅行のテーマ(ブレンデッドより「旅をしない」傾向もシングルモルトの特徴のひとつである)にするといった、よりディープな、マニアックな楽しみ方の出来るカテゴリーであることは間違いない。しかし少なくとも、一人の人間として酒を飲むという行為において、このようなカテゴリーによって本質的な優劣が生じるとは私は思わない。それは純粋に製法の違い、目指すものの違いであって、「同じものを目指したけれど出来上がりに差がある」わけでは決してない。

ブレンデッド・ウィスキーの価値を証明し続けるためにも、竹鶴時代の高級ブレンデッドをさらに発展させたと認められるような、今のニッカに相応しいブレンデッドのフラッグシップが必要とされている。こういった文脈において、私はザ・ニッカのシリーズ展開に大きな期待をよせている。この領域ではサントリーが、「響」の整然とした商品構成と高いクオリティ、30年物までラインナップするという破格の厚遇まで含めて、何歩も先を行っているので、すでに人気の確立した竹鶴ピュアモルトがあるのにわざわざ追随することないんじゃないか、ニッカはピュアモルトサントリーはブレンデッド、という住み分けも可能なのではないか、むしろそっちのほうが、両社のイメージから考えても自然なのではないか……という弱気な考えも頭をよぎる。だがしかし、そんなわけにはいかないだろうと私は思う。ライバルというのはそんなもんじゃないだろうと(部外者だけど)。今はまだ出来なくとも、長期的には、ザ・ニッカを響の対抗ブランドに育て上げていってほしい。それが出来ないなら、あの有名なカフェ式蒸留器の逸話ですら、安っぽい宣伝文句になりかねないではないか。繰り返しになるけど、ザ・ニッカの冒険はこれからだ!

「これからだ!」で終わるのも問題ある気がするので、些細な事ながら付け加えておくと、玉山鉄二さんにはディープブレンドだけではなく、「ザ・ニッカ」シリーズのイメージキャラクターも務めてほしいと個人的には思う。ドラマでは概ね「モルトウィスキーこそジャスティス」みたいな調子だったけど、ほんとはブレンデッドだって大事にしてたんやで、というのが伝わると思うから。それを伝えてなんかいいことあんのかよと言われても特にないというか、私が「この広告いいなあ」と思うくらいなんですが……。竹鶴や余市の宣伝をするにはあざとすぎるというのもある。ブレンデッドならギリギリセーフ感ある。

 

続き

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(後編) - TBLG

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(前編)

ニッカのウィスキーが8月末までに続々と終売になる。原酒の不足に対応すべく調整を行うということだが、現行のシングルモルトのラインナップが全消しという、「まじかよ」としか言いようのない物凄い情報が流れて、先月末ぐらいにえらい騒ぎになっていた。しかしまぁ新商品の情報が出揃わないことにはこれ以上騒いでもしょうがないよね、という感じで、がっかり半分期待半分のまま、ウィスキークラスタの話題としては一段落していた。ところが6月も半ばになって、「余市」終売にクローズアップしたニュースが続々と報じられている。


シングルモルト余市」8月出荷終了 ニッカ、人気で原酒不足 ブランドは継続
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150610-00010001-doshin-bus_all

で、反応を見てると、とんでもない誤解もチラホラあってがっかりする。この記事に引用されてるツイートとか。

「残念すぎる…」ニッカウィスキー”余市”の販売終了に悲鳴が殺到
http://irorio.jp/nagasawamaki/20150610/236032/

まぁそれはともかく、このせっかくの大変革期に乗っかって楽しまない手はないと思うので、刷新後のラインナップ構成について、期待を交えつつ自分なりにまとめておこうと思う。終売される商品については下記ブログにまとめられているものを参照した。公式リリースではないが、販売店向けの案内が元になっている。

ジャパニーズ・ウイスキーの終売・代替情報
(H27夏の国内ウイスキー情勢/サントリー・ニッカ・マルスなど)
http://kamode.exblog.jp/23616575

ニッカウイスキーの9月1日以降のラインナップ考察(値上げ・終売情報まとめ)
http://whiskywarehouse.blog.jp/archives/1028929178.html

 

 

(1)シングルモルトの大整理

 

ニッカのシングルモルトの現行品は、二つある蒸留所(余市、宮城峡)ごとに、


  ノンエイジ(以下NA)、10年、12年、15年、(余市のみ)20年


という構成になっている。これが一つ残らず終売ということになったので、当然ウィスキーファンは「ニッカはシングルモルトから撤退するのか!?」「いや、ブランド自体は存続するらしいぞ!!」といった感じで、蜂の巣をつついたような騒ぎになるわけである。私も正直あせった。ぶん!ぶんぶんぶんぶん!

しかし冷静になって(巣に戻って)考えてみると、そもそもこの商品構成、輸入物やサントリーシングルモルトと比較すると、明らかにニッカは10年前後のラインナップが厚い。国内消費の落ちきった90年代〜2000年代に作った原酒を、比較的廉価(というかほとんどバーゲンプライス)で積極的に売り出すための商品構成だったというのがいわば定説である。しかし2009年頃からのハイボールブームと、昨年の大フィーバーによって、いつの間にか需要増に耐え切れなくなっていたのだ。ちなみにサントリーは、2012年度までで山崎、白州10年を終売し、年度初めに出したNAと約一年の併存期間を置いて交替している。さすが時宜を得た撤退。クールだ。

よそのことはともかく、このままのラインナップで出し続ければ、数年後の商品構成に差し障る。たとえば、大きな宣伝効果が見込まれる東京オリンピックの時点で、12年、17年、20年を作れる原酒がほぼ無くてニッカしょんぼり、という状況すら予想される。したらちょっと絞るべ(北海道弁)、といった判断がなされるのはごく真っ当であると思う。昨年竹鶴12年を終売にするときには、半年前に代替品(竹鶴NA)を出すという移行策がちゃんとできていたのに、今回は突然のシングルモルト全休という、ニッカウィスキー全体のブランドイメージを損ないかねない異常事態を招いているあたり、慌てぶりが伺えるというものである。ニッカというのはつい出しきっちゃうというか、サービスし過ぎちゃうというか、要するに不器用なんである。

そんな感じでうっかりやりすぎがちなニッカなので、長期熟成ものについても、モルト原酒は各年代満遍なく残量が心もとなくなっている状況、というのは、かねてより噂されてきた。これが事実通りだとすれば、世評も高くネームバリューもあり、比較的多い量を用意しやすい竹鶴ピュアモルトに最高級クラスを一時的に任せて、シングルモルトのバリエーションを一度バッサリ切り捨てるというのは、やはりほとんど不可抗力、樽のお導きみたいなものであろう。需要拡大期にウィスキー会社の舵を握るのは樽なのだ。カスクス・トゥ・ルール・ゼム・オール。

しかし残念なことに、後継品の公開より先に終売の情報が流れてしまったせいで(いっそ空白期間を設ける予定なのかもしれないけど)、「名前だけ残してブレンデッドにするんじゃないか」などという無理解も甚だしいコメントが散見されて私は無念である。ハイニッカも喉を通らないくらい落ち込んでいる。いくらなんでもそりゃないぜ。蒸溜所の名前を冠したシングルモルトというのは業界の不文律みたいなもので、それを度外視するなんてとんでもない。一度シングルモルトとして定着した名称を、ブレンデッドにしれっと転用して売りだすなんてのは、うちの会社の能書きにある分類は嘘かもしれませんよ……、と自ら宣伝するようなもので、ニッカの築き上げた信用は地に落ちてしまう。やるはずがないのだ。なんかもうすっごいギタギタのボロクソに言われると思う。もしやったらね。

というわけであり得るのは、「シングルモルト」の定義を一切外すことなく、完全に蒸溜所限定の少量生産にするか、NAものの原酒をベースにした一本に絞るか、あるいはそれに加えて、残っている原酒の許す限り高級路線を追求したハイエンド版を(たとえば21年とか、あるいは西暦表記を復活させるか)出す、といった商品構成になると思われる。つまり現行の5ライン(宮城峡は4ライン)から1-2ラインへと集中をかけるわけだ。価格帯としては前者がフルボトルで3000円台、後者が20000円台前半くらいだろうか。その間の価格帯は竹鶴17年(値上げ後7000円)、21年(同15000円)をどうぞ、ということになる。もちろん原酒の残存状況なんか知れるはずもない、ただのファンの勝手な想像ですが。

不思議なのはピュアモルトシリーズがホワイトのみ終売で、他は値上げしつつも販売継続していることである。余市主体のブラック、宮城峡主体のレッド、ということでお馴染みの、竹鶴シリーズより古いピュアモルト(ヴァテッド・モルト)製品だが、素人考えだとシングルモルト余市NA、宮城峡NAと使用原酒がかぶるはずだし、今やネームバリューで負けている状況で、シングルモルトを先に終売にするというのは理にかなっていないように思える。まぁ単にあんまり出ないから細々と続けられるということかもしれないし、製法的にシングルモルトよりは量を作りやすいというのもあるし、実は原酒がかぶっていないのかもしれない。

いずれにせよ、現行の余市NA、宮城峡NAを愛好していた方にとっては、新しいシングルモルトが出るまでの、あるいはリリース後にも安価な代替品として、ピュアモルトのブラック、レッドは大事な一品になる。「アイラライクで強烈なホワイトはともかく、これだけシングルモルトが普及してるのに、ブラックとレッドを継続してる意味はあんのかね」みたいなことを思っていた人は、今のうちに謝って仲直りしておくように。ほんとすみませんでした。

 

6/15 追記

新しいシングルモルトニュースリリースが出た。価格はオープンとなっているが、報じられたところによると700 mLで4200円ということで、予想してたよりちょっと高めの価格設定だった。これまで通例としてサントリーの出す同じクラスのものより若干安い値付けで売ってきたので、おそらく3000円台、それも後半、と思っていたのだけど、山崎NA、白州NAにピッタリ合わせてきたことになる。店頭でどうなるかはまだわからないけど、あるいは今までと同じようにもっとも数が並んでるのは500 mLで、それだと3000円前後でちょっと安く見える、という雰囲気になるのかもしれない。

 

続き

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(中編) - TBLG

ニッカの商品再編に見る、過去と未来(後編) - TBLG

うすらカウ・カル野郎として耳の痛みが取れない

 

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

 

経済学・哲学の専門家が、カウンター・カルチャーの社会的経済的役割に疑問を投げかける、という本。ヒッピー文化に端を発する芸術および消費主義批判論者の事例を豊富に引用するポップな文体はあくまで読みやすく、楽しい。しかしその読み口の親切さは実に鋭利な武器であり、形而上的なまでに高い志のために勢い余って具体的な問題解決を拒否してしまいがちな「反逆者たち」の姿をザクザクと浮き彫りにしていく。「そりゃ無いんじゃないの? 自分がやってることをよく見てみなよ」と。

反逆、革命、カウンター、クール、オルタナティブといった価値観は、その触れ込み通りに二十世紀後半の消費主義を破壊するのではなく、より多くの浪費を先導する役割しか果たして来なかった……というようなことを次々に例証して明らかにしていくあたり、胸がすく……と言いたいところなんだけども、アップル製品を持って自転車に乗ってルー・リードを聞いているといったようなワタクシの如き典型的うすらカウ・カル野郎には耳の痛くなることがまぁ山盛りで書いてある。その上どれも説得力があるんだからこれは困る。

しかし本書はカウンター・カルチャー的嗜好を、あるいはリベラリズムそのものを否定しているといった内容では決して無い。問題は(カウンター・カルチャーに特有のことではないが)先鋭化すればするほど「打ちてし止まん」的精神論に流れる傾向であって、根本的な解決を熱望するあまり、より現実的で実行可能な対応策の思想的な瑕疵を華麗に突き刺せる論者が力を持ってしまい、結果として非効力的な振る舞いに終始する、という残念な状況を止めようとしているのである。このへんの先鋭化・原理主義化によって目的が見失われる風景は、(本書の扱う範疇を越えるが)日本における戦中の挙国一致体制も戦後の民主主義体制も変わらないのではないかと個人的には思う。

ある意味では、昨今世界中の先進国で問題になっているレイシズムヘイトスピーチというのも、リベラリズム内の感情論者というか、カウンター・カルチャー的反逆者の行動様式が、たまたま右翼的な思想を持つ人々に水平遺伝して成立したのではないかと考えさせられる。中心となる思想の左右に関わらず、感情的なフラストレーションと行動様式が直結──短絡と言ってもいい──することをむしろ善とみなす、悦楽的な批判不可能性がそこにはある。それは傍から見れば過激な選民思想のようではあるが、本人たちにとっては至って真面目な生存戦略なのだ。あえて感情的に振る舞うことで、思想的な再生産の確率を最大化する狙いがある。そしてそのような行動に走らせる強固な遺伝的要因を成立させたのは、二十世紀後半に起こった革命思想と大量消費社会の幸福な結婚であり、その後の五十年近い純粋培養である。

「日本にはまともなリベラルが育っていない」という危機意識をお持ちの方には是非一読をおすすめしたい。少し比喩的な言い方が許されるなら、持続可能性の事は考えられても、それを支える経済力の特権性を認識することすら出来ないスノビきった人たちにはその太陽光パネルと大容量充電池でいっぱいのゼロエミッションユートピアでぜひ熟読してほしい。自分たちの生活は資源がたまたま許した試行の一つであって、クールかつ正義なモデルケースなんかでは全然ないことが理解できるはずである。あくまで比喩的に。