TBLG

やり場のない長文

「エラベルノ」はどのくらい選べるのか?

神は言われた。「ペンあれ。」こうして、ペンがあった。
神はペンを見て、良しとされた。神はペン軸とペン芯を分け、
ペン軸をボディと呼び、ペン芯をリフィルと呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。

クーゲルシュライバー創世記 1. 3-5

 

「エラベルノ」の良さとリフィルの互換性

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図1 エラベルノ近影(細めクリヤー、ゲル0.7青)

 コクヨが昨秋発売したボールペン「エラベルノ」は、一見したところ地味なプラスチックボディの単色ボールペンでありながら、軸(ボディ)と芯(リフィル)を選んで使うというマニアックさで、「こだわりの文房具を使いたいけど、わたし新人だし、あまりファンキーなのを職場に持ち込んで悪目立ちして先輩にシメられたら嫌だし……」という隠れブンギアン御用達の、マリア観音みたいな地歩を着々と固めている。

 かくいう私もご多分に漏れず、実物を初めて見たときには「なんか……フツーって感じ?」と思(いながら買)ったんだけど、手元において使っていると、そのデザインのさりげない巧みさがじわじわ効いてきた。そのうちに、「この商品はこの先どう展開してゆくのだろう……」という妙な気持ちを抱くようになった。文房具とのつきあいなんて、使い心地が良いか悪いかでドライに判断して終われるはずなのに(ああ、はずなのに)、他人事ながら売り物としての将来性が気になってくるんである。こういうのをチャーミングと呼ぶのかと思う。

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図2 エラベルノのチャーミングなところ
A. どことなくペリカンのアイツを思わせる曲線のクリップ。軸の後端からクリップ先端までの切れ目のない一体感とか、ノック部のつけ根が、3重にふち取られながら斜めに流れてるところなんかも、この価格帯では類例のない美しい処理だと思う。
B. リフィル表面にプリントされた替芯の種類表示を見せる窓。クリヤータイプだとほぼ意味が無いので、将来的に不透明なボディをリリースする計画があるものと期待されている。
C. 「Dグリップ」と名付けられた、グリップパーツに切り出された面。細かい溝が切ってあって指の滑りを防ぐ。ナメクジの腹……というか足……に似ててカッコいい。カッコいいだけじゃなく、実によく効く滑り止めである。ここに親指を置いても良いし、人差し指を置いても良い。

 

 現行のラインナップでは、替芯のインクの種類は低粘度油性(ex. ジェットストリーム)と染料ゲル(ex. エナージェル)の二つで、線種(ボール径)は 0.5 mm と 0.7 mm の二つである。選択肢を絞った中で、かなり書き味の差をつけていて、油性もゲルも太い方は滑らか方向に大きく振った仕上がりになっている。細字の方は、同カテゴリの他社のリフィルと比べると少し滑らか寄りかな? と思うくらいで、安定感がある感じ。

 これはこれで必要十分なんだけど、せっかく好みのグリップが使えるんだから、もうすこし筆記抵抗の強いペン先とか、水性や顔料ゲルのインクも試せたらいいなぁと思わずにいられないのが、ブンギアンの信仰心というものである。とはいえリフィルのデザインからいって、近々にインクの種類が増えるということもなさそうだし(ボール径や色はともかく)、ここは一つパードレ(メーカー公式)の到着を待つことなく、自分たちで信仰を守る決意をしなければなるまい。

 そこでほぼ同型のリフィルを使うペンを集めて、エラベルノの軸に入れて使うことが出来るか試してみようというのが、この記事の趣旨である。今回使うペンは以下の5つ。ここで詳しくは説明しないけど、C-300系と呼ばれる、オートの水性ボールペンを代表とするサイズの替芯を使っているペンです。

A. 顔料ゲル枠:ゼブラ サラサクリップ(青 0.4 mm)
B. 水性枠:オート ギザ(C-305 ブルーブラックを入れて使用中)
C. 消せる枠:三菱鉛筆 ユニボールR:E(スカイブルー)
D. 修正ペン枠:ぺんてる パワコレ
E. 最近人気のやつ枠:ぺんてる エナージェルインフリー(ターコイズブルー

 列記するだけじゃわかりにくいというか、「あーアレね」と思ってもらいたいので写真を載せる。

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図3 リフィル・スワッピングに参加するペンたち
 一応商品ロゴをこっちに向けたんだけど、見づらい。上からパワコレ(修正ペン)、サラサ(顔料)、R:E(消せる)、エラベルノ、ギザ(水性)、エナージェルインフリー(人気)。見映え優先で撮ったあとこの文章を書いているので、上に挙げた順に並んでないのが難点である。

 ついでに中身のほうも見てもらいましょう。

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図4 リフィルたち
 並び順は図3と同じ。エラベルノのリフィル(右から三つ目)は首の部分が透明のパーツになっていて、インク流路がくびれてるのが見えてカッコいい。どれもおおまかなサイズは一緒なんだけど、オートのやつ(右から二つ目)の首の部分は明らかに太いのがわかると思う。

 結果は以下の通り。

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図5 エラベルノ軸での使用可能リフィル
A. サラサクリップの芯は使用可能。スタンダードな見た目の替芯が入ることで、エラベルノの普通さ(ステルス性能)が五割増しくらいになった気がする。
B. C-300系の由来であるオートのC-305(ブルーブラック)は、替芯の尻の部分がつっかえてしまって入らなかった。同じC-305の黒で試すと尻の部分は入ったんだけど、どっちにしろ首の太いパーツにバネが引っかかって入り切らないので、使用不可能。
C. フリクションの対抗馬ことユニボールR:Eは問題なく使用可能。ちなみにフリクションも似たような形のリフィルだけど、ペンチップが太いせいでリフィルがボディに収まらず、使えません。しかしこの白い軸に水色は似合うな……。
D. パワコレの芯も尻が入らなくて使用不可能。白も似合いそうだったんだけど。
E. エナージェルの芯は、首パーツを胴(インクタンク)に差し込んだ部分の膨らみが大きい作りになっていて、そこがつっかえてしまって使用不可能。染料ゲルインクは純正があるので別に必要ないんだけど、今期の覇権ボールペンことインフリーのターコイズブルーを入れたらきれいかなと思って試した。

 二勝三敗ということで、意外と選べないな……みたいな印象をもたれかねない結果になってしまった。どっちにしろ純正じゃないんだからいいようなものだけど、ぜひとも欲しいところだったゲル顔料インクのサラサと、消せるインクのR:Eが普通に使えるというのは、いい知らせなんじゃなかろうか。

 しかし消せるインクの替芯がよそのガワに入ってるというのは、おそらくトラブルのもとである。だいたい字消し用のラバーがついてないし……。

 でもまだサラサがある。書き味を替えてみたいとか、顔料インクで耐候性の高い文字を書く必要がある人にとっては、流通量もバリエーションも膨大なサラサクリップシリーズのインクを使えるのが、いいハックになるはずである。入手性が高いので、補充の心配がなくなるのも良い。エラベルノって、街中の大きめの文房具屋か、イオンぐらい強力な小売店じゃないと売ってないよね。少なくともうちの近所のツタヤには無い。サラサクリップなら、峡谷の村々を走る移動スーパーにも積まれているんじゃないかと思う。

 

 と、ここまで書いてきて、ふつふつと思い始めていることがあるのだけど……

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図6 この二人って……

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図7 なんか似てません?

 エナージェルインフリーのボディとエラベルノのボディ(クリヤー)が似ているのだ。

 

エラベルの兄、「エナージェルインフリー」

 エナージェルインフリーは、滑らかで濃い筆跡なのに速乾性が高い、という三拍子そろった性能で、定番実用ボールペンの一角を占めていた、ノック式エナージェルの新モデルである。形状はそのままに透明ボディにした、というものなんだけど、今年2月の発売以来大人気で、どの売場でもターコイズブルーだけ売り切れたりしている。限定生産ということだけれど、しれっとレギュラー化してほしいくらいである。

 ノック式エナージェルは過去にも、「ネコ柄」や「クレナ」という、全面プリントでファッション性の高いデザインにしたボディを出していた。しかしインフリーでは、ほとんど印刷面のない透明ボディにして、筒に着色したリフィルを見せるという、従来のイメージを大きく覆すデザインを採用し、高い評価を得た。これまで国内向けには黒赤青しかなかったインク色も、ブルーブラック、オレンジ、ターコイズブルーという絶妙なチョイスの三色が加えられている。それぞれの役割的に、黒赤青のオルタナティブという位置づけだと思うんだけど、ピンクではなくオレンジ、緑ではなくターコイズブルー、というのは素晴らしい選択だと私も思う。なぜ素晴らしいかというと、グリーンイグアナ(オス)の婚姻色と同じだからである。

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図8 婚姻色のグリーンイグアナ(オス) Photo By LoggaWiggler
 グリーンイグアナのオスは普段は若葉のような黄緑色(と部分的に黒)なんだけど、繁殖期が来るとトルコ石のような青と華やかなオレンジというすごく目立つ色になって、メスにタフさをアピールする。インフリーのターコイズブルーはかなり緑寄りなので、こうして見るとあんまり似てないけど……。まぁいいか。

 グリーンイグアナのことはともかく、エナージェルインフリーのボディは、エラベルノのクリヤーボディのような透明感で、各部をわずかに大きくしたような作りなので、同じように他社製リフィルを試したら、入るやつが結構あるんじゃなかろうか……と思ったのだ。試してみた結果がこちら。

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図9 エナージェルインフリー軸での使用可能リフィル
 なんとほとんどのリフィルが使える。D. パワコレは同じメーカー(ぺんてる)だし、ペン先の形状も一緒なので行けるかと思ったんだけど、駄目でした。リフィル全長が 3 mm ほど大きくて、一応セットはできるけど、先端が出っぱなしになってしまう上に、ノックも出来ない。残念。

 見た目の良さでいうと、サラサやR:Eのような白っぽい半透明のリフィル(AとC)は、エラベルノに入れた場合のほうが、ふわっとした雰囲気が出て良いと思う。インフリーの銀パーツは主張がけっこう強いので、ガツンと濃い色のリフィルが見えてる方が合う。エラベルノのリフィルなんか、よその子とは思えないぐらい馴染んでいる。オートの金属パイプリフィルも、むやみにメカメカしくてなかなか似合う。

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図10 インフリーのボディに似合うリフィル

 思わぬ形で、エナージェルのボディ設計に秘められた優秀さが明らかになってしまった。インフリーのボディをニセエラベルノとして使うというトリッキーな運用が、隠れブンギアンの間で一瞬流行るかもしれない。

 実を言うと、エラベルノは長めのグリップとリフィル覗き窓の兼ね合いからか、リフィル交換のときに開けるネジがボディ先端にあるのがやや気になっている。これだと、ボディの中ほどにネジがあるペンより力を掛けにくい(滑り止めの溝で緩和しているけど)し、ペン先の見た目もごちゃっとした感じになってしまう(不透明の素材を使えば解決するけど)。その点インフリーのボディは、グリップの上端にネジがあって開けやすく、ペン先は銀ー色でスッキリしていて好印象である。

 エラベルノには素晴らしいグリップ(しかも選べる)と、美しいノック部〜クリップの形状、という長所があるものの、作りがタイトめで、他社製リフィルへの応用性という観点では、エナージェルのボディに軍配が上がるということになった。文具教カスタム派の教理からすると、全く同じ価格帯に、強力なライバルが隠れていたようなものである。なんならエナージェルのほうが純正リフィルだって安い。こういう非公式な応用でライバル登場とか言われても、どっちも困るとは思うけど。

 

エラベルの王、「リバティ」シリーズ

 最後にぜひ書いておかねばならないのは、「ボディとリフィルを選ぶ」というコンセプトの先達にあたる、オート・リバティのことである。リバティは万年筆のような外観の、主に水性ボールペン(ローラーボール)として認知されているペンで、発売当初は700円の軸(細・中・太)と300円の替芯(水性、油性、ゲル、筆ペン)を選んで使ってね、という案内付きの、大きな専用什器で陳列されていた(http://www.ohto.co.jp/html/whats_liberty.html)。

 インク色も、黒赤青ブルーブラック(筆は黒のみ)、というラインナップで、あまり多色展開はしていない。あくまで使い心地の良いメイン筆記具の座を狙っているわけである。エラベルノでなされた提案の本質は、リバティで用いられたコンセプトを普及帯のボールペンに落とし込み、低価格化、カジュアル化すること、と解釈することもできる。別のメーカーなのでおおっぴらには言いにくいんだけども。

 その後、リバティと互換性のあるボディはシリーズ化して、デュード、オルカ、ジャズ……といった名前の新商品が、年に一種類ずつくらい作られたり廃盤になったりしながら、日本製ローラーボールの定番品としてしっかりと根づいている。

 わりと文具ブームの昨今にあってさえ、ローラーボールというカテゴリ自体があまり表立って話題に上らないという状況の中で、この商品ラインにこれだけ確固たる支持層があるというのは、凄いことだと思う。静かな巨人というか。去年なんか、ペン先の耐乾燥性が向上したということで、ついにノック式のボディまで出していた([O]eau(オー))。実に日進月歩なんである。

 今では一本1000円とか1500円のセット(水性・0.5mm・黒のリフィルが入っている)で売ってることが多いけど、地域の老舗の文房具店なんかでは、バラ売り当時の大型什器にリフィルが並んでるのを見られる場合がある。ふらっと入った文具店でそれを見つけると、「ここの仕入と客層はナイスだ……」と思ったりする。

 私が使っているのは、革巻きボディにシルバーキャップというだいぶヘヴィな見た目の「ギザ」です。1500円。革部分はリサイクルレザーというもので、革の裁ちクズを粉砕した繊維を樹脂(ラテックス)で固めたものらしい。辞書の表紙のような型押しビニールよりは革っぽさがある。斑点恐怖症のひとには見せられない雰囲気のペンである。イグアナの顎の下のひだの表面みたいでカッコいいと個人的には思う。

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図11 新旧選べるペン

 リバティシリーズのボディの良さは、基本的にキャップ式なので、先端側にバネを仕込んでおらず、ペン先の形状が違うリフィルも干渉することなく大体使える、というところにある。逆にボディ後端にはバネが仕込んであって、多少リフィル全長の違うものでも、この部分がバッファになることで入れられる場合がある(図12)。リフィルを変えても見た目が変わらないので、いちいち写真は載せないけど、この記事に出てくるリフィルは、すべてギザに入れて使えます。オート的にも、使い慣れた他社製リフィルを高級な見た目の軸で使うための商品として、リバティシリーズをおすすめしているフシがある。オートのリフィルもかなり良いものだけど、ちょっとお高い(300円)ので、それこそエナージェルとかサラサのリフィル(どちらも80円)で使えると覚えておくと役に立つと思う。

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図12 ギザには若干サイズの違うリフィルも入る
A. フリクションノックの芯を入れたところ。ペンチップのサイズが違うので(E:右の金属部分がやや太い)ペン先がちゃんと出ないけど、いちおう収納できるし使える。
B. パワコレの芯を入れたところ。パワコレの芯はほかのC-300系より全長が長い(F)ので、エラベルノにもエナージェルインフリーにも入らないが、ギザには入る。
C. コントロール。これと見比べると、フリクションのペン芯は三角錐の途中でつっかえているのがわかる。
D. ボディの奥にあるバネを長時間露光で無理やり撮ったもの。太いバネが見える。

 価格帯も使用感もだいぶ違うので、エラベルノにハマった人が即座にリバティ系に手を伸ばせるかというと、難しいところではある……のだけど、少なくともリフィルに対する包容力ではダントツの商品が、今でもひっそりと(失礼)現役で売られているということを、エラベルノからの話の流れで書いておきたかった。いい感じで棲み分けて、シナジーが生まれると良いのだが。

 

選べるボールペンの将来やいかに

 と、いう感じで、さまざまな面で語られビリティの高いエラベルノ、将来が気になるペンだと思いませんか? 今年の秋とかにエラベルノ・シーズン2が来るのかどうかわからないけど、私は楽しみにしている。普通にボディとリフィルの色を増やすだけじゃなく、グリップの種類(素材・形状)を増やすとか、新色リフィルはいきなりノンコピー色を出すとか、いろいろ妄想するわけだけど、出されて初めて「そう言えば無かったねそういうの」と言いたくなるような、盲点を突く新展開を期待しています。

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図13 選べるペンたち

「こまぬく」の変化について(2) クイズ! 国語辞典性格診断

teebeetee.hatenadiary.jp

(前回のあらすじ)山田俊雄が「こまねく」について書いてるエッセイを読んだので、自分ちにある辞書を引きたくなりました。

 

「こまぬく」→「こまねく」のような、時の流れによって語形変化をおこした語の場合、国語辞典ではどちらか一方に語釈を書いて、もう片方には参照(「=こまぬく」のような表示)のみを示す。こういう局面にどう対応を取るかで、その辞書の現代的な語・用法に対する姿勢が明らかになるわけである。手もとの辞典を引き比べ、対応を大まかなパターンに分類すると、以下のようになった。

(A)「こまねく」に語釈を書き、古形「こまぬく」には参照だけつける。

(B)古形「こまぬく」に語釈を書き、「こまねく」には参照だけつけるが、現在では「こまねく」が一般的であることを注記する。

(C)古形「こまぬく」に語釈を書き、「こまねく」には参照だけつける。使用頻度には言及しない。

(D)古形「こまぬく」のみ見出し語とし、「こまねく」は見出しに立てない。

 上の方ほど「こまねく」に寛容、すなわち現在の一般的用法として認めている。下の方ほど「こまねく」に不寛容、「こまぬく」を本来の形として教示している、ということ。

 この性格診断テスト*1に供せられる、我が家の辞書たちは、以下の面々である(カッコ内は初刷発行年)。出版社名が書名にないものは書き加え、初版の発行年を付した。

三省堂国語辞典 第七版(2014)初版1960年
集英社国語辞典 第三版(2012)初版1993年
・新選国語辞典 第九版(2011)小学館 初版1959年
広辞苑 第六版(2008)岩波書店 初版1955年
・旺文社国語辞典 第十版(2005)初版1960年
新明解国語辞典 第五版(1997)三省堂 初版1972年
講談社 国語辞典 学術文庫版(1984)初版1966年
角川書店 国語辞典 新版(1969)初版1956年
・新潮国語辞典-現代語・古語-(1965)初版1965年

どれも初版がすでに戦後のもの*2なので、話の流れ(前回参照)から言って(D)のパターンは無いんじゃないかと思われそうだが、これが一冊だけあてはまるのだ。残りのグループには1:2:5の割合で分かれる……というのがヒントで、腕に自信のある人は、ぜひ答案を書いてから写真の下までスクロールしてください。全問正答できたら超絶国語辞典マニアである。私が出題されたらまず正解できない。

 

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左から右に向かって新しくなるように並べている。手前で開かれてるのは広辞苑

 


さて正解は、

(A)「こまねく」に語釈
三省堂国語辞典 第七版(2014)初版1960年

(B)「こまぬく」に語釈、ただし「こまねく」が一般的と注記
・新選国語辞典 第九版(2011)小学館 初版1959年
([参考]現在では「こまねく」のほうが、ふつうに使われる)
広辞苑 第六版(2008)岩波書店 初版1955年
(▽近年、音変化した「こまねく」が多く使われる)

(C)「こまぬく」に語釈
集英社国語辞典 第三版(2012)初版1993年
・旺文社国語辞典 第十版(2005)初版1960年
講談社 国語辞典 学術文庫版(1984)初版1966年
角川書店 国語辞典 新版(1969)初版1956年
・新潮国語辞典-現代語・古語-(1965)初版1965年

(D)「こまねく」の見出し無し
新明解国語辞典 第五版(1997)三省堂 初版1972年

……というものである。どうでしょう。現代語ストロング・スタイルで定評のある「三省堂」が(A)に来るのはまずわかるけど、60年代の辞書(新潮、角川)が(D)に来ずに「新明解」が入ってるとか、初版も改版も新しい「集英社」が(B)にいないあたりが、引っかかるポイントではないかと思う。

 ちなみに「広辞苑」の第五版(電子辞書版)は(C)に入る(注記がなかった)ので、2008年の改訂で「こまねく」に寛容になったようである。「コトバンク」収録の「大辞林 第三版」は(B)、「デジタル大辞泉」は(C)に入る。これらの中型辞典は同じ出版社の小型辞典(「三省堂(A)」と「新選(B)」)よりはやや保守的と言える。

「こまねく」を見出しにしていない「新明解」だけど、当然「こまねく」の形に気づいていないわけではなくて、「こまぬく」の語釈中に〔口語形では「こまねく」とも〕と書いてある。見出しになくても気づくのは容易であろう(と擁護する)。もっとも、1997年の時点でも「こまねく」を口語形に限定できるか(すべきか)は疑問に思う。正誤の判断は棚上げするとしても、文章での用例がない(少ない)とは言えないではあるまいか。踏み込んだ語釈のために斬新なイメージを持たれがちな「新明解」ではあるけど、見出し語の選択など他の要素では実は保守的、という一例だと思う。現在の版(第七版、2012年)ではどうなっているのだろう?

(C)グループの中でも、「こまねく」に対する態度には温度差がある。もっとも手厳しいのは「講談社」で、「「こまぬく」の誤り」とバッサリ切り捨てるようなことを書いている。これでは見出し語に採用してるとはいえ、「新明解」よりよほど厳しい見解である。書いてある場所もノドから一行目で暗い雰囲気だし、「「こまねく」よぉ、オメーちょっと使われてるからって調子乗ってんじゃねーよ」とでも言いたげな圧を感じる*3。ほとんどいじめじゃないかと思うような厳しさだけど、私には手をこまぬいて見ていることしか出来ない。

 そこへ颯爽と現れて、「こまねく」に救いの手を差し伸べるのが、山田俊雄先生の「新潮国語辞典」なんである。「新潮」での「こまねく」の語釈部分は「→こまぬく」という参照だけのそっけないものだが、その後ろに〔ヘボン〕という福音が記されている。〔ヘボン〕、ああ、〔ヘボン〕! これは「ヘボンの「和英語林集成」(1867)に見出し語として採録されてる語ですよ」という意味である。「新潮」が参照しているのは厳密には「和英英和語林集成 第四版」(1888)ということなのだけど、いずれにせよ、幕末から明治初期までの間に使われていた日本語の、確かな証拠と言うことができる。まあこれだけだとヘボンにも「アヤマリ」と書かれてるなどの可能性は捨てきれないわけだけど(辞書愛好家は疑り深い)、少なくとも見出し語には立ってる。いつかヘボンの原文を調べてみたいものである。

 また、「こまねく」の使われていた時期がずっと古いからといって、「誤り」と断言するのが誤りなわけではもちろんない。辞書の紙幅では許されない証拠が背後にあるのかも、と疑わせる契機になるし、発行当時に巷間で行われていた誤用説の保存、という役割を引き受けることでもあるので。

 ここでせっかくなので、「新潮」の素敵な出典表記についてもう少し詳しく説明させてください。「こまぬく」という見出しには三つの意味が書いてあって、

(一)うでぐみをする。
(二)左右の手を腹の上で組み合わせて敬礼をする。
(三)何もしないでいる。

というものである*4。で、この順序は意味の派生の順序(先に書いてあるほうが古い)を示していて、さらに出典表記を見ることで、その意味のおおまかな年齢がわかる、というのが「新潮」の特徴(チャーム・ポイント)なんである。

(一)には「こまねく袖を秋風ぞふく」〔古今六帖一〕と引用がしてある。「古今和歌六帖」は平安中期(十世紀末)成立とみられる私撰集なので、その頃までには使われていたことがわかる。辞典類の見出し語としては〔名義抄〕にあることが示されていて、「新潮」においては「観智院本類聚名義抄」にあるよ、という意味です。この字書は平安末期の成立*5

(二)には引用例文「拱(―きて)レ手辞曰」〔孝徳紀訓〕とあって、これはちょっと難しい。まず「紀」というのが「日本書紀」の略記で、その前に「孝徳」とあるのは、その用例の見られる巻次を示している。孝徳天皇の巻(第二十五)から引きましたよ、ということです。で、そのあとの「訓」というのが重要で、これは奈良時代に成立した「日本書紀」の引用ではあるけれど、日本での著作とはいえ漢文だから、そこにあるのはあくまで「拱」という漢字でしかない。これを「こまぬく」と読んだ証拠は、平安後期(以降)に書かれた訓読にしか求められない、という含意を持った表示である。これが理由になって、平安中期以前の証拠のある(一)よりあとに日本書紀の引用出典をもつ(二)が並べられているわけですね。僅差みたいだけど、明治と平成ぐらいの時代差はある。

(三)には引用がない(不安だ)。

……と、いうような情報が、たちどころに読み取れる辞書なんである、「新潮」は。こんな小さいのに。「広辞苑」にも古典の用例は引かれてるけど、「新潮」のほうが情報量が多いし、誤解の無いよう配慮されていると感じる*6。これって、最高にクールだと思わないか? 私はファッキン・クールだと思う*7。「たちどころに」とかしれっと書いたけど、私のごとき教養の不足した身では、正確に理解するのに苦労するところもある(上の説明も誤りの無いよう調べながら書きました)。でもとにかく、古辞書や写本、版本をなるべく遡って出典に反映しようという、歴史的ストロング・スタイルに貫かれた真摯な国語辞典です。こういうのを読んでると、日本語の豊かな土壌にしっかりと根を張っているという気持ちになってくる。しっかりと根を張ってるから、ファッキン・クールとかストロング・スタイルとかが平然と使えるわけである(苦しい言い訳)。

「新潮」を称えるのに熱が入りすぎて、だいぶ間延びしてしまったが、グループ(C)でもう一つ紹介したいのが「集英社」の補足説明である。「集英社」では語義と例文のあとに「▽」を付して補足的な説明を加えることがあるんだけど、「こまぬく」には

▽「こまねく」ともいう。もと、両腕を前で組み合わせる中国の礼法から。「唐(こま)貫(ぬ)く」からか。
(カッコ内の読み仮名は原文では割注)

と、書かれている。他の辞書の語釈を見比べても、「胸の前で手を組む礼法といったら、三国志とかでよく見るアレかな」と、推察できるところである*8。しかし「唐貫く」という語源説は、よその辞書には全然載ってなくて、独自性が強い。「からか」って思いっきり疑問形で書いてるし。いや、辞書に載せるくらいだから、なんか有力な典拠があるのかもしれないけど。こうやって字面を見る限りでは合ってるのかどうか判断し難い(「高麗」じゃないの?)。ひょっとしたら勇み足なんじゃないかと思わなくもない。しかしこのように、ギリギリまで真面目に独創性を追求した記述こそ、国語辞典の華という気がする。後発ながら世評の高い「集英社」の魅力は、こういうところにも溢れているのである。

***

 私が上の方で、「いつかヘボンの原文を調べてみたい」と書いていたのを覚えておいでだろうか。苦節ゼロ日、ついにその機会が訪れた。この大インターネット時代にあっては、いつかと言わず今日すぐにでもヘボンの原文に当たれるのである。各国の図書館所蔵の「和英語林集成」が、スキャンされてGoogle Booksに収録されているからだ。喜び勇んでダウンロードして、この歴史的辞書を紐解いてみた私は、そこで衝撃の真実に直面してしまった。この続きはまた明日。

*1:一語だけの比較で辞書の性格を判断するなんてのは本来フェアではないし、そもそも最新版で揃えてないのに比較するのも問題はあるんだけど、遊びと思ってご寛恕ください。

*2:三省堂国語辞典」と「新明解国語辞典」の初版年は、見方によっては原形である戦中の「明解国語辞典」(1943年)に求められるのであるが、ここでは別物と考える。

*3:これは言い過ぎ。上品な辞書です。付録の「語彙の構造」とか好きです。ノドの方に書いてあるから暗い雰囲気、なんてのは完全な言いがかりである。

*4: (一)とした約物は、原文では丸の中に漢数字。

*5:観智院本は全編現存する唯一の名義抄だが、鎌倉中期の写本。より古い零本(部分的に残っている本)の図書寮本にある場合は〔図書寮本名義抄〕と明記される。

*6:広辞苑 第六版」では、宇治拾遺五「こまぬきて、少しうつぶしたるやうにて」という用例が引かれている。「宇治拾遺物語」は鎌倉初期の成立なので、「新潮」に引かれている例よりはやや新しい(検討した上でのことかもしれないけど)。「広辞苑」では「こまぬく」の語義を明示的には分類せず、「左右の手を胸の前で組み合わせる。腕を組む。転じて、何もしないで見ている。傍観する。」と書いたあとに、先ほどの引用例文を載せているのだが、これではどの意味の用例なのか判別しがたいので、不親切だと思う(理由があって避けてるのかもしれないけど)。古い方の意味から書くのが「広辞苑」の基本的なルールなので、古典の用例なら初めの二つの意味のどっちかかなと推量はできる。実際そのあとに「腕をこまぬく」「手をこまぬく」の形が引かれているので、転じたあとの意味が後の二つの例文だと読み解ける。ただし胸の前で手を組んでるのか腕を組んでるのかは、結局特定できない(原文にあたっても特定できないかもしれないけど)。

*7:興奮すると言葉遣いが乱れる。

*8:四字熟語に「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」というのがあって、これは礼法のポーズのまま、何もせずにそばで見ている、という状況を慣用句にしたものである。もうすこし詳しくその状況を想像すると、玉座の間みたいなところで官僚たちが恭順のポーズのまま並べられていて、部屋の真ん中では同僚があらぬ疑いかなんかで偉い人に責められててこれもう多分死んじゃう、死んじゃうからかわいそうなんだけど、偉い人に逆らうわけにもいかないので手を組んだまま、だまって見ている……という感じですね(つらすぎる)。この四字熟語の意味が、もともと「腕を組む」という意味だけだった日本語の「こまぬく」に乗り移って、現在のように「手をこまねく」だけで何もしないでいることを表すようになったものと思われる。

「こまぬく」の変化について(1) 山田俊雄と見坊豪紀

 見坊豪紀(1914-1992)は、言わずと知れた史上最高のワード・ハンターにして、「明解国語辞典」「三省堂国語辞典」を作り上げた辞書編集家である。名作ノンフィクション「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」(佐々木健一著)や、「三国」の現任編集者である飯間浩明さんの活動を通じて、その事績に触れて(かつ圧倒されて)いる人が多いことと思う。ここでは深入りしないけど、とにかく辞書史に残る巨人です。

 一方の山田俊雄(1922−2005)は、見坊と並び語られることの多い山田忠雄(「新明解国語辞典」の主幹)の実弟で、彼もまた「角川国語辞典*1」「新潮国語辞典-現代語・古語-」「新潮現代国語辞典」などを手がけた辞書編集家である。その後も角川系のいくつかの国語辞典や古語辞典、さらには三省堂の「例解新漢和辞典」の編者代表を務めるなど、生涯に渡って国語辞書界に貢献し続けた。市井の辞書愛好家の中には、「誰にも言ってないけど、実は山田俊雄先生がいちばん好き」という人が少なからずおられるのではないかと、勝手ながら推察するものである。

 というのも、彼は本業の傍ら、実妹である俳人山田みづえが主宰する「木語」という俳句雑誌に、言葉の観察記のような短いエッセイを寄稿し続けていて、これが幾つかの単行本にまとめられており、どの作品も、打ちのめされるくらい鋭くて面白いのである。今では概ね入手困難なので、いっそ発表順にどこかの文庫でまとめて復刊してほしいものだと常々念じている。読者を選びすぎる気がしなくもないけど。

 そんなエッセイ集の一冊、「ことばの履歴」を読んでいたら、不意に見坊豪紀の登場するくだりに行き当たって「おっ」と思った。206ページの「腕をこまねく」という題のエピソードである。かいつまんで説明すると、

  1. 「こまねく」というのは「こまぬく」の変化した(訛った)形であるぞよと、現行の*2どの辞書にも載っているのだが、どうも「こまねく」自体の実用例を引いたものは無いようだ。
  2. 「こまねく」を見出しに立てている辞典を辿っていくと、戦後の「広辞苑」までは行き着くのだが、その前身である昭和10年初版の「辞苑」には「こまねく」の形での見出しはない。
  3. 「拱く」という表記での昭和10年以前の用例なら、昔の辞典に引かれているのが見つかるが、これは「こまぬく」と読むもの。
  4. その後の「こまぬく」の実用例は(50年ほど経っているが)未詳、「こまねく」が台頭してきた当時の実用例も未詳、という状況である。

 そんなおり、山田俊雄の前著「詞林間話」のなかで、

「何もわからず、手をこまねくばかりだった」

という表現を使ったところ、見坊豪紀からの「読後の通信」に

「120ページ8行目「こまねく」は原文のままでしょうか?」

という問い合わせがあった。この「通信」というのが手紙で来たものなのか、読者カードなのか判断に迷うところだが(読解とはときに不安定なものだ)、いずれにせよ、原稿あるいは初出誌に「こまぬく」と書いた部分の誤植ではないかと、わざわざ確かめるために筆を執ったのである。これすなわち、どの辞書を開いても例を引かずにただ訛りであると教えている「こまねく」形についての、共に斯界をリードする同時代の国語学者山田俊雄による貴重な実用例として、見坊豪紀は採集(ハント)するつもりだ、ということである。

 山田俊雄は意図せず「こまねく」の用例を提供したことについて、「ある種の当惑を覚えた」と書いているのだが、それがどのような種類の当惑であったのか、正確に酌み取るだけの力を私は持たない(「採られたッッッ!!!」とか思うのかな?)。わからないなりにも、辞書編集家という人々が、いかに細やかに移ろいゆく言葉の姿を追求し、かつ確かな根拠を持ってその変化を作品に反映すべく、多大な努力を払っているかを示す逸話として、面白く思った次第であります。

 ところで、この「こまねく」という語は、現代の日本語では「腕をこまねく」「手をこまねく」という形で、何もできずに傍観していることを示す句として(あまり日常的ではないものの)使われている。一方、「こまぬく」という古形は、正しい形とされつつも、ほぼ辞書でしか見られないものになっている……という状況を述べて、このエッセイは終わるのだが、こういう話を読んだからには、手もとの国語辞典でひととおり「こまねく(こまぬく)」を調べてしまうのが人情である。しかしその話は長くなるのでまた明日。

 

*1:角川書店の刊行する国語辞典はいくつもあるが、これは今でも(2018年現在)大きめの書店なら新品が置いてある、文庫をちょっと大きくしたサイズのやつである。私が持っているのは1969年の改訂版(1994年の刷り)で、この改訂から山田俊雄が関わっているのか、それとも1956年の初版からなのか確認したいと思っているのだが、未だ実現して(買って)いない。なんで知りたいかというと、56年版から関わってるなら角川が先、69年版から関わってるなら新潮(65年)が先ということになるからである。そんなことを知ってどうするのか? どうもしない。

*2:この稿が起こされたのは1987年〜1991年の間ということである。掲載誌に当たっていないのでこれ以上細かな時期は未確認。

「新明解百科語辞典」を知っていますか(3)

(前回までのあらすじ)ブダペストで謎の死を遂げた防具マニアで推理小説好きの世界的大富豪が、妻の忘れ形見である一人娘に託した遺言は、「『新明解百科語辞典』の謎を解け」だった……。

「新明解百科語辞典」を知っていますか(1) - TBLG

「新明解百科語辞典」を知っていますか(2) - TBLG

 

2)特集ページをひもとく(承前) 

レベル5 怪物

『新明解百科語辞典』には、二十一世紀に生きる我々がもはや想像力の中でしか出会うことの出来ない怪物たちが眠っている。彼らは並みいる他の有用な百科的項目(「しゅりょうごんぎょう」とか)を押しのけ、大胆に図版を配置した特集ページという独立した王国を確立した。それも三つも。百科事典という、それを手に取る個人にとって知識と非知識のあわいにある領域こそが、実在と非実在のあわいに棲む自分たちにとっては最適の居場所なのだと考えているかのようだ。そんな居心地のいい、都会の喧騒を離れて潮騒とか木々の葉擦れとか吹雪だけをBGMとする文人たちの愛した隠れ家バー的にこじんまりとした小百科事典をわざわざ暴き立てるのも申し訳ない気がするが、辞書は「取材おことわり」みたいなことをとくに言わないのがいいところなので、暴き立てさせていただこうと思う(ぎこちない敬語)。次の写真をごらんいただきたい。

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図1 絶滅動物小辞典(部分)

はじめに訪れるのは(順番は私が決めている)、オオウミガラスドードーやリョコウバトの登場する「絶滅動物小辞典」である。1600年以降に絶滅が確認された動物が6ページに渡って解説され、図版は見開きごとに4点の計12点がならぶ。図版のほとんどは鳥類で、哺乳類が2点(クアッガとフクロオオカミ)あるほかは全て鳥である。

私は思うのだけど、絶滅した鳥の復元図は物悲しい。絶滅哺乳類だって物悲しいと言えば物悲しいが、化石からの復元くらい古くて不確かなものでないと、ある地域で絶滅していても他の地域では似た姿の動物が残っていたりするので、「近代になってこの地域のこのサイズの種が絶滅した」と思えてしまうところがある。剥製が残っていたりするとなおさらである。しかし鳥類は、近縁種であっても模様や体のバランスが多様すぎるゆえに、見た目の印象の固有性が高く、まるではじめから誰かの想像で書かれた動物みたいに見えてしまうのだ。そのことが余計に儚さを感じさせる。冒頭に掲げたオオウミガラスでさえ、現存のペンギンと比べると、受ける印象がかなり違う。どことなくおじいさんの古い記憶を思わせるフォルムをしている。

あるいは人間というのは、鳥の姿形や行動が気になって仕方ないという生理的特徴を備えているのかもしれない。だからこそ珍しい鳥を見たとか鳥の行動がどうだったとかが吉兆を占うのに使われたり、地域でスズメの数が減ったりしたらすぐに地方紙の見出しになったりするのである。

そんな物悲しげな古い記憶の鳥たちに誘われ、さらなる未知の怪物たちが待つページへ……。

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図2 未確認動物小事典(部分)

ここはいわゆるビッグ・フットやネッシーの世界である。4ページの小事典だが、みごとなまでに図版はビッグ・フット系のやつとネッシー系のやつで占められている。本文のほうにはさすがに他の種類(ツチノコとか)もいるけど、ごく少ない。このページを見ていると、なんだか人類は大昔からビッグ・フットとネッシー状の生き物の目撃ばかりして生きてきたような気がしてくる。雪男とシー・サーペントと言ってもいいし、大脚怪とトッシーと言ってもいいけど。このくらい地域も時代も(まぁだいたいの目撃例は十九世紀以降なんだけど……)違うのに、似たような姿の怪物が念入りに並べられると、まるっきり集合的無意識の産物みたいに見える。海原や岩山自体が潜在的にこれらの動物の姿を想起させる光学的パターンを持っているんじゃあるまいか。木肌に人の顔が見えるのと同じで。

残念に思うのは、3ページ目にはビッグ・フットの渋い横顔が三段ぶち抜きで配置されていたり、説明文中に別称の出てくるものはそれもいちいち見出しに立てていたりして、企画したはいいけどそんなに書くことなかった感が漂っていることだ。「名探偵」や「絶滅」の充実ぶりとはえらい違いである。説明じたいも油断しているフシがあって、ある生物の説明では「巨大なタコなのではないかといわれる」と書いてあり、別のには「湖面を移動する細長い丸太のようなもの」などと書いてしまっている。目撃証言を正確に描写したまでよと言われればそうなんだろうけど、これではあまりに身も蓋もない書き方ではないかと思う。それは巨大なタコであって細長い丸太なのではないかと思っても責められはしまい。

あと「アルマ」という怪物の説明にある「ソ連版雪男」というフレーズに、ふいに時代を感じさせるところがあって見事である。ほとんど地球の世界観設定だった東西対立が、一方の覇者であるソ連の崩壊によって終わりを迎えて久しいが、「ソ連版雪男」という文字列を見ていると、雪男にとってさえソ連はあったのだという気がしてくる。実際にはそんなことはなくて、彼らは国や主義とは関わりなく、黙々と吹雪にまぎれて存在と非存在のあわいをさまよっていただけなのだろうけど。

そんな雪男たちの踏み跡をたどるようにして、我々はついに『新明解百科語辞典』の最深部、神々の眠るページへ……。

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図3 キメラ的怪物小事典(部分)

ガルーダに襲われてる女禍が飛んで逃げてる構図に若干なってるショッキングなページを筆頭に、4ページにわたって、全くの想像上の生物、複数の動物の合成として描写される怪物たち(その多くは神とみなされる)の特集が組まれている。ほぼ全て中国・インド・ギリシアで、中東(シュメール~ペルシア)と日本がちらほら、といったところである。もっと中南米とかポリネシアとかいろいろ足して6ページにしてほしかった気もする。

こうして並べられると、どうしてこんなに合成獣というアイディアは世界中にあるのだろう……と考えこんでしまう。考えるというより妄想が広がると言ったほうが正しいかもしれない。古代の人々が、想像上の生き物とか、ごく僅かな人にしか目撃できない生き物の姿を語ろうとするとき、いくつもの既知の動物にパーツごとに類比して伝達するしかなかったからなのだろうか。未知の動物を描写するのに、既存の動物の名前に頼るしかないという言語表現上の制約が、地球上にかくも多くのキメラを生んだのか。それとも綿密に系譜をたどることで、一体の最初の合成獣まで遡ることができるのだろうか。


3)辞書と妄想と紙

妄想が広がる……というのは、常識的には辞書の機能としては全く求められないものではあるが、「紙の辞書」の将来を考えると、実は悪いアイディアではない。

 

もちろん携帯性、検索性、可読性において、電子辞書(専用機だけでなくタブレットなどのアプリも含む)は紙の辞書を圧倒しつつあって、その流れは今後も止まることはない。一例をあげるなら、現時点では紙が優位な一覧性でさえ、電子辞書のものになりつつある。ディスプレイの表示能力の面ではすでに実現可能で、あとは大量の文字を表示しストレスなく操作できるアプリケーションがあれば、ほとんど紙の辞書そのままをタブレットに映して利用できるようになるだろう。

ふつうの小型辞書を開くとだいたい10インチぐらいの画面に5000-6000文字くらいの文章が並んでいるのだが、今のタブレットの描画能力があれば、これをそのまま再現するのは非現実的なことではない。紙の辞書のレイアウトのまま、文章だけをスクロールするなんて芸当もそのうちできちゃうかもしれない。そういうアプリがまだないのは、電子辞書には「いくら文字を大きく表示しても物としてのサイズが変わらないのが利点」という考え方が根強くて、わざわざ小さな文字で表示するメリットの追求が遅れていたせいだろう。

三省堂はこのへんの克服に意欲的で、最近出た「エースクラウン英和辞典」のアプリ版では、目的の語の前後も一覧できる表示体系を一貫して利用するようになっている。それだけでなく、文字入力によらない検索操作の洗練と、複数の箇所を同時に開いておける画面レイアウトによって、電子辞書アプリに感じる不満を非常に効果的に解消している。

この方向に進んでいけば、紙の辞書では絶対に不可能な、頭文字順(ふつうの辞典)と分類順(類語辞典)の切り替えができて、そのための洗練されたインターフェイスを持つ辞書が実現するかもしれない。欲しい。

 

しかしそれはそれとして、どれほど本文の見た目や操作性が紙の辞書に近づいても(あるいは乗り越えても)、同じ空間に存在している物体、という存在感だけは再現できないように思われる。辞書は情報の集積であると同時に、立体的な造形作品でもあるのだ。必要な情報を取り出すという本来の用途の他に、ワンアクションで自分の抱えている個人的な言葉の体系から少し離れて、一時的にもっと大きな言葉の体系によりかかることで、頭のコリをほぐすような効果を私は紙の辞書に感じる。

読み書きを山登りにたとえるなら、背負った荷物を下ろして、岩に腰掛けて周りの地形を見るような、あるいはそのへんの動植物に目をとめるような時間が、紙の辞書を開くときには流れているように思う。電子辞書では同じことが起こるか? と考えてみると、電子辞書には使い手に高い能動性を要求する傾向があって、上と同じたとえで言うなら、地図を見てるのは同じでも、ルートを確認している、といったような、しっかりと目的がある動作という感じがする。

そんなのは読み手側の気持ちの問題だ……と理屈では考えられるのだけど、紙の辞書が持つ物体としての存在感が上のような実感をもたらしていると私は思う。電子辞書にはどうしても、自分が操作しなければこの辞書──画面に表示され、視覚を通じて人間の肉体とつながる──は存在すらしていない、という距離感がつきまとう。情報として機器に格納されているとわかってはいても、目にする辞書の紙面は私自身の操作によってその都度生成されているという感触がある。一方で紙の辞書は、私とは無関係に隣に存在していて、「ま、読むなら読めよ」という感じで開かれるのを待ち、待っている間にも気配を放っている。同じ空間に居続ける。これは「自分が見ているから世界は存在する」という世界観と、「自分がいなくなったあとも世界は存在する」という世界観との間の違いに似ている。

この違いがなぜ大事なのか? 哲学的な議論に踏み込むのはひかえつつ(畏れ多い)、ひとつ実用的な論点をあげるなら、辞書にはセレンディピティの媒介になるという二次的な(本来の目的の外という意味で)用途があるからだ。そのためには、手頃なサイズと豊かな内容という相反する要求をなんとか工夫して満たしていこうという職人的手仕事(注1)とともに、物体としての存在感が必要になってくる。

手のひらに乗るくらいのサイズの500万文字(ふつうのB6版の国語辞典がだいたいこの文字数)の書物があって、そこには通常の連想では考えられないような順番で──なぜなら隣り合った項目で共通するのはほとんど頭文字だけなので──さまざまなイメージが並べられている。それを視野の外でちょっとずつ捉えながら調べ物をしていると、意識下で勝手に連想が生まれたりくっついたり離れたりして、新たなキメラが生まれる。そのほとんどは意識下のままに忘れ去られるが、運が良ければ新たな発想の種として意識上に浮上してくるかもしれない。もっと運が良ければ発芽して育つかもしれない。頭のコリをほぐすと言ったのはこういう意味で、これはこれで立派な効用である。検索性や可搬性を犠牲にしてでも維持する価値がある。

そしてその効用──セレンディピティをもたらす祈祷書としての効用──のためには、「開き、読む」という極限まで削ぎ落とされた操作性がなにより肝心で、かつ分子的世界で具体的な量的実感を持てる姿形をしていることが重要になる。

 

いま手近にB6サイズのふつうの辞書がある人は、それをちょっと取り出してみてほしい。箱に入っていたらそこから出し、できればカバーも外して、机に置く。そのうえに手を乗せてみる。どうだろう、ちょうどあなたの手より一回り大きいくらいではないだろうか? なんとなく親しみが湧かずにはいられない。

次に右手を上に向けて脱力し、そのまま親指の付け根だけを少し動かして、ほかの指に向かい合わせてみてほしい。そのとき指で囲まれている空間は、辞書にぴったりの幅ではないだろうか? 試しに左手で辞書を持ち上げ、背表紙を右手の手のひらにつけるようにあてがう。そして自然に右手の指に力を入れる。なんて持ちやすいんだ! 間違いない、人間の手は辞書を持つために進化したんだ!

握っていた指を開き、同時に辞書のページも開く。私がいま手にしているのは、自分の脳と手の延長のように存在する炭素と水素と酸素(とその他少量の元素)の塊である。だんだんと身体の一部のようにさえ感じられてくる。しかしまた、この塊はより大きな流れ──人々が使ってきた言葉たち──の一部を切り取ったものでもある。いや、実際には切り取ってさえいない。なぜなら私が開き、読むことで、この辞書はいつでも大きな流れの一部になれるし、私がいなくなったあとも、誰かに読まれさえすれば大きな流れの一部に戻れるのだ。

そしてそこに書かれている物事の配列は、私たちがふだん思い出したり連想したりする物事の集合とは大きく異なる。自分ひとりの頭で考えているのとは全く違うやり方で、脳の底に溜まった記憶を浚ってくる。辞書のページを埋めているのは、ある言語が文字とともに発達したことによって副次的に生じたイメージの配列であって、詩とも散文作品とも違う謎めいた力を放っているように感じられる。その力はまだ十分に汲み尽くされていない。この「新明解百科語辞典」のように、原理的には古くからの国語辞典でありながら、収録語彙の範囲を固有名詞に大きく振ることで、新たな魅力を獲得するような例があるからだ。

 

「新明解百科語辞典」のようなコンセプトの辞書が更新されずにいるのは、とても残念なことだ。親辞書の「大辞林」と通常の小型国語辞典との間に挟まれた、かなり特殊な(使う人の姿勢によってはきわめて不便な)辞書であるというのは否めないが、ことばの抽象的側面を削ぎ落とし、具体的でカラフルなイメージばかりがならんでいる紙面は、ひとたびその性質を心得ると、麻薬的な楽しみとしてあなたの心に棲みつくだろう。


4)おわりに

冒頭で掲げたこの辞書の企画意図をあらためて振り返ってみよう。

① 未知の専門用語などに出会った時、かつての私たちは多巻本の百科事典を引いていた
② しかし多巻本の百科事典は取扱いに不便で、いつしか『大辞林』サイズの一巻本の大型国語辞典が百科事典代わりに引かれるようになった
③ ならばいっそ、百科語彙のみを集め、専門用語や固有名詞の検索に便利な小型辞典を世に問うてみようではないか

……というものだ。あらためて言うまでもなく、それから25年以上たった今では、前提条件が大きく変わっている。みんなグーグルで検索しちゃうから、あえて小型辞典サイズに百科語彙をまとめておいても、べつに便利だとは思われないんである。これでは復活の余地はない……と思いそうになるけど、しかしそれは、検索性という観点から見た場合に限って言えば、ということでもある。「固有名詞ばかり並んでる紙の辞書」という立体作品が、それを手に取る人間にもたらす効用というのは、あらためて見直されるだけの価値があると思う。

とはいえ、序文を読んでいると、この辞書の利便性、必要性というところに関しては、製作者側もどことなく半信半疑だったフシがあって、「大辞林」からの抜粋の他に、「中学校・高等学校の教科書から語彙を採集して、学習にも役立つようにいたしました」と書かれている。実用性を上積みしておきたい、という意欲というか色気のようなものが感じられる。しかし(当然ながら)許される紙幅の関係上、専用の用語集や小事典に比べるとかなり見劣りする内容ではあって、「これ一冊で用語集とかは買う必要なし」というものにはなっていない。辞書の記述は質実剛健、ぎりぎりまで真面目に徹するのが味だが、学習参考書としての用語集には、記述式問題のための文例集的な性質も要求されるので、語釈のスタイルが根本から異なるとさえ言える。

それでも現実的には、高校生向けの需要を掘り起こすというのが、昨今の紙の辞書の一般的なサバイバル戦略だ。増ページをしてでも用語集や小事典の代替になれるよう内容を増やし、「固有名詞(注2)ならなんでも載ってるスゴいやつ」として刷り込みを狙う……という方向性くらいしか、復活の道はないという気がする。そしてどんな形であれ復活できれば、このカラフルなイメージに満ちた書物は、誰かの手の中で無意識に働きかけ、心をマッサージする効用を発揮すると思う。そこに名探偵や怪物たちがいなくても。

 

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注1
職人的……というと昨今の統計的アプローチによる辞書づくりを否定しているように思われそうだが、そういった意図はない。というより、頻度分析に基づいた収録語の選定や語義の配列というのは、あくまで「限られたサイズで最大の効用を」という目標のために使われるツールの一つであって、有用な一冊の辞書を作る限りにおいて、それは常に「職人的手仕事」と見做せるように思う。無限にスペースの拡大する電子版とはちょっと違う役割をこれからも担ってもらう必要がある。

注2
「用語集」というのは山川出版社の「地理用語集」とかのような本のことだが、こういう本では固有名詞以外に重要な名言や概念についても文のかたちで立項されている、ということが事態を複雑にする。いずれにせよ「用語集」のような、単元別に関連語彙がまとめられた構成は辞典としては実現不可能なので、ある程度見切りをつけた語釈にしなくてはならない。「小事典」はもうすこし一般的な辞典に近いが、教科別小事典自体がすでに数を減らしつつある状況である。ただ教科ごとに何千円と出すのがためらわれるというだけで、逆に「これ一冊で全教科」3000円、というのが出たら意外と売れるような気もする。

「新明解百科語辞典」を知っていますか(2)

前回のあらすじ)Amazonの奥地に棲むという伝説の辞典「新明解百科語辞典」。長く危険な探索行の果てに我々が目にしたものは、奇怪な縞模様に彩られた小口だった……。

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図1 奇怪な縞模様に彩られた小口

 

2)特集ページをひもとく

妙な引きまで作って盛り上げるほどのことかね、と怒られそうなので、百聞は一見に如かず、初めの特集ページをご覧いただこう。

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図2 秋の歳時記(部分)

 

レベル1 歳時記

そう、最初の特集は、いかにも国語系百科事典らしい「歳時記」のコーナーなのだ。写っているのは右上1/4ほどだが、けっこう大胆にスペースを使っているのがおわかりいただけると思う。一文字一行の節約に命をかける過酷な小型辞典編集の世界(妄想)にあって、非常に大らかな編集方針を感じさせる、なんとも気持ちのよいページである。とんぼも楽しげに飛んでいる。

『新明解百科語辞典』の特集ページは、そのジャンルによっていくつかのカテゴリに分けられるのだが、歳時記系はその中でも最大派閥、8コーナーに別れて、本書全体にまんべんなく散らばっている。そのラインナップを列記すると(カッコ内の数字は収録ページ番号)、

・秋の歳時記(16)

・雨の歳時記(42)

・風の歳時記(224)

・雲と雷(374)

・月の歳時記・カレンダー(950)

・夏の歳時記(1060)

・春の歳時記(1178)

・冬の歳時記(1276)

……と、なっている。どれも大胆なレイアウトが施されていて、「春夏秋冬」はまだページ全体にわたって何らかの記述があるが、「雨の歳時記」は見開きの3/4が雨降りの浮世絵、「風の歳時記」は見開きの3/4が凧揚げの浮世絵、「雲と雷」は見開きの3/4が雷神で、風神はいないので右半分はがら空き、という非常に贅沢な紙面の使い方がされている。大迫力の雷神、と言っていいと思う。

どうせなら何とかして実物を手に入れて見てほしいので、雷神の写真は載せないけど、私はこのページを見ていると、「ファイナルファンタジーV」の古代図書館で本から出てくるモンスターを思い出す。「64ページ」がレベル5デスを使ってくるアレである。何のことかわからんという人は、「FF5 古代図書館」でGoogle検索して画像を見てください。

雷神の載っているページは、横長の画面で下に文字があって、左側半分に大きなモンスターがいるという景色が、いかにもFFの戦闘画面なのだ。古代図書館にはイフリートがいたが、『新明解百科語辞典』には雷神がひそんでいるわけである。だからといってべつに襲ってきたり倒して召喚に使えるわけではないが、電子辞書なんかを近づけたら放電して破壊するくらいのことはやってのけそうな迫力で雷を起こしておられる。この文章を読んで『新明解百科語辞典』が欲しくなった人がもしいたら、「374ページ」を開くときにはじゅうぶん気をつけてほしい。

歳時記の話に戻るが、よくよく考えると、頭文字の順に本文に挟まって出てくるというのは、一年をまとめて見ようと思ったときには不便なんじゃないかと思う。せめて「春夏秋冬」くらい、本文の「歳時記」のあとに連続8ページで載せても良かったような気がする。そもそもがフレーバー・テキストみたいなもので、実用性なんか度外視と言われればそうなんだけども……。

 

 

レベル2 伝統芸能など

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図3 歌舞伎(部分)

次に紹介するのは、あえてカテゴリを設けるなら、「伝統芸能を始めとする和の文物」についての特集である。これらのページはわりにまっとうな作りになっているので、とくにコメントできることはない。そのラインナップは、

・歌舞伎

文楽

・能

という伝統芸能の他に、

五街道

・将棋

百人一首

のコーナーがある、というものです。どうです、まっとうでしょう? 囲碁はないのかとか、「文楽」のページがちょっと怖い(主に人形の首の紹介なので)とか、「泰将棋」(25マス×25マスの盤に、93種354枚の駒を使う将棋)というのは大変そうだなぁ(実際に行われてはいなかったという説がある)、とか思うくらいである。

 

レベル3 スポーツ

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図4 アメリカンフットボール(部分)

三つめのカテゴリーはスポーツである。フィールドの寸法などが図解され、ルールや用語について若干の説明がある。見開きの1/8くらいが文章である。どことなく古代ギリシャの壺絵を思わせるスタイルのイラストでプレイヤーの姿が描かれているのがなんともいえず良い。しかし驚くべきはこの左側のページである。

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図5 防具マニアのコーナー(部分)

アメフトは右上にちょこんといるだけで、あとは防具系スポーツのみなさん(アイスホッケー、ホッケー、剣道、野球(キャッチャー)、クリケット)の装備を堪能するコーナーになっている。たしかにアメフトはいかつい装備が目を引くスポーツではあるけど……。ほかのスポーツの防具を並べてイラスト化する必要があったかどうかというと疑問である。もっとこう、チームとか名選手とか、ほかに書くこといっぱいあるだろうと思うのだけど、三省堂編修所はどうしても防具を載せたかったのだ。防具を載せるのに理由はいらないのである。

スポーツ系特集コーナーのほかのラインナップは、

・テニス

・バスケットボール

・ホッケー

となっていて、これだけ贅沢な紙面の使い方をしておきながら、紹介するスポーツをこの四つに絞るというところが粋だと思う。選択の基準が全然わからないのだ。最初見たときには、いわゆる「北米四大プロスポーツリーグ」に準じて選び、日本でも認知度の高い野球は除いてテニスを入れたのかな、と思ったんだけど、よく見ると「ホッケー」はアイスホッケーじゃなくてフィールドホッケーで、この説は採れない。あるいは深謀遠慮の末にこの四つに決められているのかもしれないので、そのへんの事情が分かる人がおられたら、ぜひご一報いただきたい。

勘の良い人にはわかると思うんだけど、それぞれ紙面の1/4から半分くらいのスペースが、「ラケット比較」「ゴール比較」「スティック比較」に割かれています。あえてスポーツ系の特集ページを褒めるなら、わりと十九世紀風の挿絵がいっぱい載っていて楽しい。辞書好きの人というのは語の図解のための線画が好きで、ひいては十九世紀風の挿絵も好物という傾向があると思っているんだけど、みなさんはどうですか。

 

 

レベル4 探偵

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図6 名探偵WHO’S WHO(部分)

次に控えるのは推理小説に登場する探偵の小事典、その名も「名探偵WHO’S WHO」である。「推理小説」の見出しのあるページの次から、なんと6ページにわたって、名探偵たちのプロファイル(略歴、創造者、登場作品)が載せられている。この規模は本書の特集ページ中でも最大のもので、アーチャー(リュウ)からワイン(モウゼズ)まで、100人近い探偵が所狭しと並んでいる。キャノン(カート)の荒々しい略歴なんかを読んでいると、つい登場作品を読んでみたくなるので、読書案内としてけっこう機能していると思う。以下探偵の名前の表記は見出しに準ずる。

マーロー(フィリップ)なんか例の名言(「タフでなければ生きていけない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」)つきで載っているし、ホームズ(シャーロック)級の有名人になると、切り立った崖の上でのモリアティとの乱闘シーンの挿絵付きで載っている。たいへん充実した小事典である。

他に「おっ」と思うところでは、エーコ薔薇の名前」(東京創元社、1990年)の主人公、バスカーヴィルのウィリアムが載っている。たしかにこの辞典が作られていた1990年は、「薔薇の名前」の邦訳がついに出て読書界が盛り上がっていた頃だと思われるのだが(当時四歳なので詳しくは語れない)、他に居並ぶ探偵の方々のように人気シリーズの主役という立場ではないし、ちょっと意外な感じがする。

ひょっとするとこの特集ページ自体、東京創元社のスパイの人が三省堂編修所に忍び込んで入稿したものなのではないか、という想像が頭をもたげてくる。改訂版が出るたびに新しい探偵が載ってページが増えていたりしてると間違いないと思うところだが、残念ながらこの辞典は初版で止まっているので、疑いの域を出ない。いずれにせよ、三省堂編修所の人は戸締まりに気をつけたほうがいいと思う。もっとも戸締まりに気をつけたところで、東京創元社くらいになると、何らかの密室トリックを使って入稿してくる可能性もなくはないけど(注1)。

 

***

 

歳時記、伝統芸能、スポーツ、探偵。次々と襲いかかる四種類の特集ページに悩まされながら、我々探検隊はついにたどり着く。伝説の迷宮『新明解百科語辞典』の奥の奥、未知の怪物たちが眠る特集ページへ……。というわけで以下次回。

 

注1

巻末のクレジットを見てみたら、資料協力のところに東京創元社がありました。スパイではなかった。

「新明解百科語辞典」を知っていますか(1)

棚買いをするほどの熱さには達していないんだけど、紙の辞書には愛着がある方で、辞書シーズンの本屋に行くとむやみにうきうきしてしまうし、古本屋でちょっと変わった辞書をみつけると、つい買い込んでしまう癖がある。今回はそんな変わった辞書のひとつ、『新明解百科語辞典』(三省堂、1991年)をご紹介します。

 

この辞書は残念ながらというべきか、あまり広まらなかったようで、現在は改訂もないまま絶版になり、ネット上での言及も極端にすくない。どのくらい少ないかというと、三省堂HPの紹介(古いデザイン)、個人サイトでの言及が一件(2007年)、ブログでの言及が二件(2006、2014年)、レファレンス協同データベースでの言及が一件(2010年)、読書メーターでの登録、レビューが一件(2013年)、ツイッターでの言及が六件(2012-2016年)、あとはAmazonなどの販売サイトと、『新明解国語辞典』についての記事が引っかかるのみ、という、はなはださみしい事になっている。

 

ちょっと他にはない愛嬌のある辞書なのに、このままでは血で血を洗うIT革命の波濤に呑まれ、忘却の海溝に淪滅しかねない(危機感で語彙が増える)ありさまなんである。それではあまりにもったいない。この有意義かつファンキーな辞書が、荒ぶるインターネット世界に少しでも爪痕を残せるよう、微力ながら力添えしたいと思った次第であります。

 

1)外観と概要

何はともあれ、まずはそのお姿を見ていただこう。

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図1 机の上に立つ『新明解百科語辞典』とその他の辞書 右から順に『新明解百科語辞典』の外箱、本体、サイズ比較(兼スタンド)用の『集英社国語辞典 第三版』(2012年、以下『集国』)、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008年)の外箱。『集国』のネオンレッドが朝の光をうけて眩しい。

 

百科語辞典という書名から、『広辞苑』クラスの辞書に匹敵するサイズを持った、一冊ものの百科事典をつい想像してしまうところなのだけど、ごらんの通り外見はB6変形のごくふつうの小型辞典である。

外箱のデザインやカバーの色味が『大辞林』(三省堂、1988年)に似ているな、と思ったあなたは実にするどい。まさに『大辞林』ファミリーの一つで、序文で語られているところによると、

① 未知の専門用語などに出会ったとき、かつての私たちは多巻本の百科事典を引いていた

② しかし多巻本の百科事典は取り扱いに不便で、いつしか『大辞林』サイズの一巻本の大型国語辞典(注1)が、百科事典の代わりに引かれるようになった

③ ならばいっそ、百科語彙のみを集めた、専門用語や固有名詞の検索に便利な小型辞典を世に問うてみようではないか

……というコンセプトで作られたもので、その収録語彙と語の説明は、当時デビューしたばかりの『大辞林』に「多くを拠っている」ということである。要するに抜粋版、親子辞書の関係ですね。ためしに見出しを適当にえらんでコトバンクの『大辞林 第三版』で引いてみると、説明の本文はほぼそのままで、文末にあげられている用例や、作家の項目であげられている作品名などの補足的事項が削られているくらいの違いしかないようだ。もとにした版が古いせいか、『大辞林 第三版』には載ってない見出しもあったりする(「サレカット・イスラム」とか)。

 

「百科語彙のみを集め」た辞書というのが具体的にどういうことか、端的に示そう。「ことば」という項目の前後の見出しを拾ったときに、『三省堂国語辞典 第七版』(以下、『三国』)では(カッコ内に品詞)

・ことのは(名)

・ことのほか(副)

・ことば

・ことはじめ(名)

・ことぶき(名)

……と、並んでいるのに対し、『新明解百科語辞典』だと(カッコ内に略説を付す)、

・ことどり(オーストラリアに棲むスズメ目の鳥)

・コトネアスター(バラ科の低木の属名)

・ことば

・ごとばいんごくでん(後鳥羽院の歌論集)

・ことばがき(和歌の成立背景をのべた前書き など)

……と並んでいる。えらい違いだ。国語辞典では一般的な名詞のほか副詞・形容詞なども載る一方、「百科語辞典」ではより専門的な名詞や固有名詞が載る、というわけですね。また、国語辞典では「ことば」の説明の後に、「ことば」を含む語句、つまり「言葉遊び」とか「言葉尻」といったたぐいの説明が40行ほどにもわたって書かれるのだけど、「百科語辞典」は「ことば」の語義説明(6行)があるのみで、語句は引けない。『集国』や『広辞苑』のような、百科兼用をうたっている国語辞典だと、その中間あるいは両方をカバーしている、といったところである(注2)。「コトネアスター」なんかは『広辞苑』にも載ってないけど。

 

収録語についてはもう少し言いたいことがあるのだけれど、細かい話になるのでそれは後回しにします。先にビジュアル面からこの辞典のただならなさを解説していこうと思う。まず次の写真をごらんいただきたい。

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図2 ただならぬ雰囲気を感じさせる小口

 

このくらいのサイズの辞書にはだいたい備わっている、そのページに載ってる語の頭文字に応じた高さで紙の端を着色することによる階段状のインデックスの他に、うっすらとした灰色の線が何本も入っているのが、おわかりいただけるだろうか? これらはすべて、見開きの「特別ページ・小辞典」なんである。小学生向けの学習国語辞典じゃあるまいし、本文と別の特集ページをこんなにたくさん入れていいのか? だいたい本文に載らないような語を特集だからとたくさん集めても、その分野に興味がない人には無用の長物なのではないか? それともひょっとして、真に実用的な付録なのか? この驚くべき特色の全貌については、項をあらためて明らかにしていく。

 

 つづき

teebeetee.hatenadiary.jp

注1

辞典のサイズを示す名称(大中小)には大きく分けて二つの考え方があって、辞書関係の文章を読むときにはどっちに基準をおいているか注意を払う必要がある。簡単にまとめると、

A)「大辞典」というのは、あくまで『日本国語大辞典』や『オックスフォード英語辞典』のような多巻本の最大クラスの辞典の呼称であるべきで、『広辞苑』など一巻本のものは「中辞典」、『新明解国語辞典』など標準的なB6変形サイズのものは「小辞典」と呼ぶのがふさわしい

B)『広辞苑』など、外で持ち歩くことを想定していないようなB5サイズ以上の一巻本は「大辞典」と呼んで良くて、B6変形以下のサイズのものを「小辞典」、あるいはA6変形以下の縮刷版やポケット版と区別する場合に、B6変形を「中辞典」、それより小さいものを「小辞典」と呼ぶのが便利

……ということになっている。Bの場合に沿って呼ぶときには「大型辞典」と書くなど、「型」を入れるか入れないかで、文章上なんとなく区別することは不可能ではないと思う。しかし商品名としては、『講談社日本語大辞典』のように、大きいは大きいけど一巻本の辞典が堂々と「大辞典」を名乗っていたり、外国語辞典だとB6サイズでも比較的収録語数の多いものは「中辞典」(『ロワイヤル仏和中辞典』など)を名乗っていたりして、「大中小」のついた呼称には辞書の大きさ(収録語数、文字量、版型)を判断する材料としての統一性が無く、都度確認する必要がある。

個人的には、Aの意味での「大辞典」に相当する辞書なんて、いちいち総称を設定するほど種類が無いんだし(だいたい一国一種類)、辛うじて三種類ほど(古いものを含めるともっと多い)が売り場に並んでいる『大辞林』付近のサイズを呼ぶのに、「大」を使わせてあげていいんじゃないかと思う。しかしいざ図書館とかで、『日本国語大辞典』全巻の置かれた棚の前に行って、「我こそは大辞典である」みたいなオーラを浴びてしまうと、かしこまって従うしかないという気がしてくる。困ったものです。

不便といえば不便だけど、しょせん呼び名とサイズは別の問題なので、なるべく注記はしますが、あとはなんとなく文脈で判断してくださいという状況である。言葉のプロ中のプロたる辞典業界がそれでいいのかと思いそうにもなるけど、大体においてこういう歴史的経緯のある用語は、人為的に整理を試みてもまず定着しない、という言葉の厳しさを誰よりもわかっているのが辞書業界なんだと思う。

 

注2

参考のため、他にもいくつかの国語辞典について、「ことば」の前後五つの見出しを並べた表を作った。本文でやったように読みだけでは何のことかわかりにくいので、漢字あるいはカタカナの表記を書いてある。かぎかっこ付きの項目は書名です。

 

表1 「ことば」の前後の主見出し

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出典:三省堂国語辞典 第七版(2014年)、新明解百科語辞典(1991年)、集英社国語辞典 第三版(2012年)、広辞苑 第六版(2008年)旺文社全訳古語辞典 第四版(2011年)、旺文社国語総合新辞典 新装版(1998年)

 

欲張って横に伸ばしすぎたので見づらくて恐縮だが、国語辞典ファンにはこんなちょっとした表でも楽しめる見どころがいっぱい詰まっていることに気づいていただけると思う。

たとえば『広辞苑』と『旺文社全訳古語辞典』にある「ことは(如は)」というのは、古語に見られる「同じことなら」といった意味あいに訳せる言葉で、ややマイナーだが古今和歌集に用例がある。このくらいだと古語辞典じゃなくても『広辞苑』クラスには載るのだが、「主要な古語」を載せているという触れ込みの『集国』では、スペースに限りがあるためか残念ながら載っていない。「如く」や「如し」など同じ語幹のことばから類推しても、やや意味が取りにくい言葉なので、例つきで見出しになっていると親切である。『集国』は初学者の古文の読解に使えるところまでは目指していないということだろう。

その前は「事の由」、「殊の外」と続いているが、「事の由」は古風な言い方と判断されたためか、『三国』では見出しにないし、「事」や「由」の例文や下位項目としても載っていない。一方、『三国』だけにある「事の起こり」というのは、事件もの探偵ものなんかでごくふつうに耳にする連語だが、他の辞典では『集国』が「起こり」の用例に載せているのみで、見出しはもちろん「事」「起こり」の説明中にも出てこない。こんなふうに、「普通に通じちゃうけど、あらたまって意味を考えたことはない」くらいの現代語表現を拾ってくるのは『三国』の得意技といえる。

通じるんだから辞書に載せるまでもないじゃないかと思われそうだけど、そういう言葉は長い時間が経って使われなくなったり意味が変わったりすると、誰も正確に読めない、みたいなことになりかねない(まぁ人生のタイムスケールではなかなか想像しにくいことだけど)。使われすぎて逆に気づきにくい言葉を、丹念に拾って収録してくれるのは、誰がなんと言おうと偉大な仕事なんである。「言葉畑のキャッチャー」……と言うとなんか悲壮感が漂うけど。

下の方を見ると、人名は「後鳥羽天皇」でさえ載ってないのが『三国』なんだというのがわかる。載ってないというと不便なようだが、これは利点でもあって、具体的なイメージを喚起する人名や固有名詞が少ないことと、そっけないくらいフラットな語釈が相まって、文章を書きながら引いていても考えごとの邪魔にならないのが『三国』なんである。辞書というのはけっこうものを言うし、引いたページにいる人名なんかが目に入ると、なんかガヤガヤしてうるさく感じるのだが、『三国』は読んでも書いている文章への集中が途切れない稀有な辞書だと思う。もちろん個人の好みの問題だし、伝わりにくい言い方かもしれないが、大いにおすすめしたいポイントである。逆に説教されたい気分のときには『明鏡』を読む……というのは誇張です。すみません。

「ことばのおだまき」以下の江戸末期の語学書が載ってるかどうかとか、右端の『旺文社国語総合新辞典』についても書きたいところなんだけど、思わず『三国』のプッシュに力が入ってしまって、注が本文より長くなりそうなので、このへんでやめておきます。

スコット・ウェイランドのたゆまぬ彷徨(3)

危機、離別、再集結

1995年のはじめ、STPは次のアルバムのためのセッションを始めた。しかしその試みは二週間ほどで頓挫することになった。ウェイランドが薬物所持により拘束されたのだ。「Purple」の制作とそのツアーのころから、突出して派手なスター性を纏っていくウェイランドと他のメンバーの間には、亀裂が入り始めていた。この事件に前後してバンドの結束はさらに弱まり、ほとんど活動休止にまで追い込まれた。ウェイランドには一年間の保護観察処分という判決が下された。

ウェイランドはこの時期、サイドプロジェクトthe Magnificent Bastardsの活動を開始する。下積みを共にしただけに、エゴとエゴのぶつかり合いも激しくなる本体バンドよりも、半ばビジネスライクに自分の音楽を実現できる環境を求めたくなったのだろう。腕ききのセッション・ドラマーでプロデューサーでもあるヴィクター・インドリッツォとウェイランドを中心としたバンドで、その成果はとある映画のサウンドトラックとジョン・レノン・トリビュート・アルバムという二つのコンピレーションに収められたもののみが公開されている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=x9WO5hTy-hU
Mockingbird Girl

ツイン・ギター・オルタナの佳曲、という感じの曲。後にリアレンジされてウェイランドのソロ・アルバムに収録されていて、事実上ウェイランドのソロキャリアにおけるデビュー曲ということになる。後に明らかになるようなデヴィッド・ボウイ好き好き感はまだ出ていない。

STPの停滞に苛立った残りのメンバー達も、新たなヴォーカリストを探しながら作曲を進める。のちにTalk Showとしてともに活動することになるデイヴ・カッツの人選は、この時には既に済んでいたらしい。バンドの活動にフラストレーションを抱えたソングライターの多くがそうであるように、この時期の彼らの作曲能力は飛躍的に増している。ディーンの言によれば、前のセッションがポシャってからの数ヶ月間に30曲ほどが出来ていて、秋にSTPのレコーディングに入る前に、それらをあらかじめ振り分ける必要があったということである(振り分けの傾向についてはあとでまた書くが、さすがに後の方に「あまりもの」を使うわけにはいかないという判断が見て取れる)。

そう、彼らは決まりかけた新しいヴォーカリストとの活動を先延ばしにして、STPのレコーディングに入った。そこまでのことをさせるだけの「何か」を、全員が感じ取っていたのではないかと思う。


Tiny Music… Songs from the Vatican Gift Shop(1996)
Tiny Music...Songs From The Vatican Gift Shop

Tiny Music...Songs From The Vatican Gift Shop

 

レコーディングは合宿形式で行われた。サンタ・バーバラの一軒家を借りきって、そこにレコーディング機材を持ち込み、寝起きをともにしつつの録音である。何もかもが順調だったとは言えない。バンド内の関係は完全に修復されていたわけではなかった。初めはどこかぎこちなく、やがて険悪な空気さえ漂った。しかしそこにある音楽は、個人的な不満を越えて彼らを結びつけ続けた。PVに使われて残されている当時の映像では、さすがに直接的な摩擦みたいなものは見られないけど、ウェイランドが他の三人とろくに口も聞かない、というビーチ・ボーイズ的な日々もあったと、何かで読んだおぼえがある。

しかしこの時期のフラストレーションの高まりは、悪い面ばかりではなかったというのが、いちファンとしての僕の正直な感想だ。解散寸前の緊張に満ちたバンドだけに気まぐれにもたらされる、詩神の恩寵のようなものが、彼らの上にも降り注いでいたことが、このアルバムを聴くとわかる。STPの他のアルバムでは、楽曲が要求するアレンジに忠実に従うという彼らの性向のゆえに、アルバムとしてのトータルイメージの形成に至っていない面がままあるのだが、この「Tiny Music…」だけは美しい例外となった。グラム的にケバケバしいポップ・ソングをポスト・パンク的な荒々しい音像で鳴らす、という、このバンドのオリジナリティの中でも最高の果実がこのアルバム全体を貫いている。そして統一感のある音像に抗うように、楽曲のほうがさらに振れ幅を増している。

シングル曲についてはPVとともに取り上げるが、アルバム曲も全てがすばらしい。あくまでスムースで美しいAnd So I Know、軽いジャム風のヴァースからいきなり怒りを叩きつけるようなコーラスに移行するArt School Girl。過去のアルバムにおけるCreep、Big Emptyのような構成(静かに始まってドカン)を持つ曲にAdhesiveがあるのだが、ここでは最初のパートはさらに陰鬱に、「Adhesive love」と歌われる大サビは天上的なまでに美しく鳴らされる。こんなにも美しいしゃがれ声は他ではちょっと聞けない。彼らの置かれた状況──成功の後遺症としての混乱、そして仲間への愛着──を粗く素描したような歌詞も、涙なくしては聴けない。


https://www.youtube.com/watch?v=G0gAxuvo5rc
Big Bang Baby

と、大真面目に語ってきたところで出すといかにも気の抜けるようなPVなんだけど……。でもまぁポップな曲をやけくそとばかりにぶち鳴らすスタイルがわかりやすく出ているのが手柄と思う。最後のコーラス部分で、画面に4つ並べたハートマークの中から顔を出してふざけてるところなんか超ベリーマッドである。ところで、わりと肉づきが良かったウェイランドの顔がげっそり痩せている。本人的にはケバいメイクが映えるので嬉しそうにも見えるけど、傍目に見てると嗚呼……となるところではある。とつぜん思い出したので書くんだけど、ベースのほうが弟だからね。……こら! そういうことを言ってはなりません。あれはダンディなヘアスタイルが進行しているというのです。


https://www.youtube.com/watch?v=HVPzWkdhwrw
Trippin’ On A Hole In A Paper Heart

セカンド・シングルは珍しくドラムスのエリック・クレッツの曲。クレッツは他のアルバムでは単独名義での作曲はないのだが、この時期(「Tiny Music…」と「Talk Show」)は例外的にリーダー曲がある。PVはレコーディングセッションの様子と、おそらくこの時期の雑誌用の撮影かなにかのオフショット集という形になっている。「元気でやってます」といった雰囲気がそこにはある。この曲の後年のとあるライヴ映像における、ウェイランドの痙攣的な動きと衣装(上半身裸に腿までぴちっとした黒いパンツ)は、日本のファンには「アメリカの派手なエガちゃん」と呼ばれ親しまれている。


https://www.youtube.com/watch?v=ds_43MdYiuQ
Lady Picture Show

今作のおしゃれ担当PV。タイトルまんまのヴィジュアルワークですが……。こういう白黒の映像で見たウェイランドはやはり痩せて見える。メイクにおけるボウイ趣味はいや増すばかりである。

このように傑作を手にしたバンドだが、セールス的には期待したほどの動きはなかった(それでも初登場4位だけど)。批評では作品の「一皮むけた」感を好意的に扱うものも多かったが、表面上では非カラフルに見えるところが退歩と断じられる場合もあった。グランジ・ブームが一段落し、ラップ・ロック(って言えばいいのかな)の興隆に向かっていた時期にあっては、「いまいち尊敬されないグランジ・バンド」がやや苦戦するのは仕方がないと言えるのかもしれない。ポップ・ミュージックにおける「時代遅れ」という概念が崩壊してしまった現在に生きていると忘れそうになるけど。そんなわけでこのアルバムは、どことなく「ファン向け」みたいなイメージをまとったまま今に至る。アルバムトータルでのオリジナリティ、ストレートに迫る演奏、といった尺度から見れば、最高の作品だと思うんだけども。

セールスが伸び悩んだことの責任は、バンド(というかウェイランド)にもある。96年末、またもウェイランドが薬物所持で逮捕され、アルバム発売後のツアーが中断してしまったのだ。ちょうどオリジナル・メンバーの再結成を遂げたKISSのサポート・アクトとしてツアーに同行していた時期で、秋の北米ツアーを終えて、年内最後のハワイ公演に向かう前の逮捕だったということである……と、Wikipediaにはあるんだけど、KISSのツアーログを確認するとハワイへは行っていない。うーむ。まぁ別にハワイじゃなくてもいいんだけど。とにかく年末のライヴと、続く97年のツアーへの同行はキャンセルされたということ。とんだご迷惑をおかけした形になるKISSの皆様だけど、ドラムスのピーター・クリス様からは、「あいつが良くなるのを祈ってるよ。なにしろ奴らはマジでグレイトなバンドなんだからね」という地獄のあたたかい励ましを頂戴したということである。がんばれウェイランド。

かくしてSTPは、滑り落ちるように活動休止の暗い淵に沈んでしまった。正式な解散宣言こそしなかったものの、ウェイランドは(リハビリと)ソロ活動に、残りのメンバーは新バンドに全力を傾注することになる。


Talk Show(1997)
Talk Show

Talk Show

 

ウェイランドの歩みからは少し離れるけど、関係ない話でもないので、1995年に一度中断していた、STP楽器隊とデイヴ・カッツ(人気はともかくキャリア的には先輩)による新バンド、Talk Showについてもさらっと触れることにします。このころウェイランドはたぶん更生施設にでもいたんじゃないかと思う(うろおぼえ)。

前にも述べたようにこのアルバムは「Tiny Music…」の姉妹盤とも言えるもので、95年のSTP中断期間に書き溜められた曲から「デイヴ向け」に取り置かれた曲がほぼそのまま用いられている。したがってその内容はきわめて充実している。とにかく次から次へといい曲が出てくるという……。さきにちょっと触れた楽曲の振り分けの傾向についていうと、これは個人的な感想も含む想像なんだけど、ある程度ポップ・ソングとしてまとまった完成形が見えているものをTalk Showに、デモ状態ではヘンな曲だけどメロディ次第で大化けしそうな曲をウェイランド向けに振り分けたのではないか、という気がする。そのくらい「Talk Show」の曲のポップソング的完成度はおしなべて高いし、「Tiny Music…」の荒々しい予測不可能ぶりと好対照を成している。それは初めて組む先輩ミュージシャンに妙な出来のデモをぶつけるわけにいかないということでもあるし、それだけウェイランドとの化学反応を信頼していたということでもある。そしてその成果をあえて比較するなら──ある意味不幸なことに──ウェイランドとの化学反応の非常な強力さを証明することになった。

レコーディング自体はSTPのツアーがぽっかり空いた夏の一時期を利用して、ひと月ほどで行われたようで、ほとんど掛け持ち状態の忙しさなんだけど、それもテンションの高い良い演奏につながっている気がする。これだけ充実した演奏をみせられたら、どことなく「私キープされているのかしら」的な立場に置かれたデイヴ・カッツの疑念みたいなものも、吹き飛んでしまったことだろうと思う。バンドのグルーヴのキレはむしろ高まっているとさえ言える。したがって演奏の質がどうこうという問題はない。曲が良く、演奏も遜色ない。デイヴ・カッツの歌には、「代役」的に声質の似たヴォーカリストとして選ばれている印象はついて回るのものの、それを差し引けば、この怒涛のポップ・ソング祭りによく似合うクリアで喉越しの良いヴォーカル・スタイルという美点があると思う。

それでもなお、何かが足りない。

これはもうマジックと呼ぶしかない。選ばれたバンドだけが生み出せる特別なエーテルことバンド・マジックである。このバンドにはマジックだけがなかったのだ。今でこそ楽曲の質の高さから(僕に)見直されている埋もれた良作だが、当時のセールスはけっこう厳しいものだった。ピーク時131位だそうだ。アメリカのマーケットとはかくも極端なものなのか。ほとんど残酷である。


https://www.youtube.com/watch?v=doeYk7Np4uQ
Hello Hello

というわけでTalk Show唯一のPVを。わりにギュウギュウに要素の詰まった曲なんだけど、キレッキレでいい演奏ですよね。まぁこの曲がピークといえばピークではあるのだけど……。あとなんかやたらポップな上に背景に虹が描いてあるあたり、後年の短命バンドZWANを彷彿とさせるところである。ZWANで思い出したけど、最近Pixiesでベースを弾いてるパズ・レンチャンティンって小学校の美人教師みたいな衣装でなんともいえず良いですよね。最初見た時は「さすがにお年を召されましたなぁ……」って思ったのだけど、じわじわ良い。もちろん若い頃の良さは論に及ばずである。何の話をしているのだ僕は。

Talk Showに話を戻すと、このPVを探すついでに当時のライヴ録音を見つけて聞いたんだけど、オリジナル曲の途中からSTPのTrippin’〜に突入するパフォーマンスなんかをしていてデイヴ・カッツが気の毒だった。もちろんみんな良かれと思ってやってるんだろうけど……。これも後年の「3対1」バンドAudioslaveにおける、「RATMの曲をやらされるクリス・コーネルの図」を彷彿とさせるところである。クリス・コーネルに関しては自分の曲(Spoonman)でさえ声の出なさをごまかしきれていないので、公開処刑やむなしというところではある(それだけ全盛期がクリス・超人・コーネルだったということなんだけど)。その点デイヴ・カッツはけっこう歌えている分よけいに気の毒というものだ。「声は出てるんだけど、いちおう現役の本物と比べられちゃあまずいよなぁ」というか。そのせいかどうかは知らないけど、デイヴ・カッツはTalk Showのあとは目立った活動をしていない。

バンドはFoo FightersやらAerosmithやらという超絶VIPとツアーを回るも、前述のとおりセールス的には失望する結果となり、98年のはじめにデイヴ・カッツがバンドを去るという形で解散している。アメリカのロック史屈指の残酷物語であると僕は思う。


12 Bar Blues(1998)
12 Bar Blues

12 Bar Blues

 

なんか思いのほかTalk Showの話が(脱線気味に)盛り上がってしまったけど、その間にウェイランドも(たぶん)健康を回復し、ソロ・アルバムの作業を進めていた。どうやら当時の義理の兄のツテで紹介されたプロデューサーとの作業から、ドラム・ループを柱にギターやキーボードを重ねてコツコツ作曲することを覚えたらしい。そうか、地球にはこんな便利なものがあるのか、という感じで(想像)。

こちらはその制作過程からも想像できる通り、バンドサウンドをほとんど引きずらない作風で、もともとは全編バンドサウンドだったMockingbird Girlさえヴァース部分のオケをドラム・ループとふわっとしたギターに差し替えるというアレンジ変更を加えている。全体的には、クリアなR&Bサウンドから、ノイジーなインダストリアルまでの振り幅をもったポップ・ソング・アルバムといったところである。主な影響源はもちろんデヴィッド・ボウイだ。Jimmy Was a Stimulatorという全編テクノ・サウンドにソウルフルなメロディーが絡む曲なんか、ほとんどその頃のボウイそのままみたいな曲だと思う。しかしここまで寄せてしまうと、ソウル的な「節」が出せるボウイとは違って、ウェイランドのヴォーカルは案外ストレートな感じになってしまい、あまり「これぞ」という出来にならないのが悲しい。バンドではあれだけアクが強いのに。コクみたいなものに欠ける、というか。もちろんそのクリアな声質を持ち味として伸ばしていくとか、ウェイランドなりのコクを生み出していくといった可能性はあったにせよ。

とはいえ今聴くと、楽曲それぞれのクオリティは低くはない。というよりむしろけっこうかっこいい。録音的にも蓄積資本の豊かさを感じる。当時のファンが求めていたものとは違った、というだけのことで、決して駄作とけなせるようなものではない。ボウイだボウイだ言われるけれど、ウェイランド独自のメロディが堪能できる曲も十分ある。ちなみにこのアルバムが出た当時、ロス在住の日本のロックスターことhideが、なんかの番組の近況ビデオレターみたいなやつで、ロサンゼルスのレコード屋にこのアルバムを買いに行くというのをやっていた(Youtubeで見れるのかもしれないけど探すのを断念しました)。その時には「大好きなバンドのヴォーカリストの初ソロアルバムで楽しみにしていた」ということだったが、のちの評として「土下座してでもバンドに戻れ」的なことを言っていたのは有名な話である。しかしそれも、必ずしもこのアルバムの出来が良くないということではなかっただろう(と思う)。要するに、今まさに脂の乗り切ったバンドをみすみす遊ばせたまま、ソロ活動なんかしてる場合じゃないぜ、お前のソロは(決して悪くはないけど)そこまでの出来ではないぜウェイランド、ということである。お前さえまともになればバンドは順調なんだから……というか。なんかタイミング的に遺言みたいな話ですが(ご存知の通りhideはこの年の5月に早世した)。


https://www.youtube.com/watch?v=kmjNkyCxmTM
Barbarella

というわけでこのアルバムからの唯一のPVを。一聴してわかる通り、「もしも初期ボウイが90年代の機材を持っていたら」みたいな曲である。特に最初の方。サビに入るとさすがにウェイランド的なメロディが前面に出てくるとは思う。でもまぁこれについては曲がどうこう以前にPVが……。だって地球に落ちてきた宇宙人ですよ。まんますぎか! ここまで徹底的にやられると、ほとんど「私はボウイになりたい」の世界である。ちなみにその頃のデヴィッド・ボウイご本人は、これまた熱狂的なボウイ・ファン(たぶん)のトレント・レズナーとつるんでいた。っていうか追われていた。要するにストーキングである(怖い)。あんまりしつこく追われるので慌ててタクシーに乗りこんだらその運転手がまたトレント・レズナーだったというコント……じゃなくてPVを撮っていた。I’m Afraid of Americansという曲なんだけど、久々に聴いたらこれさすがにかっこいいですね。90年代後半のボウイは充実していた。その後心臓の手術までしたのに10年たったらしれっとまた充実しているんだからこれはかなわない。ほんとに宇宙人なんじゃないか。MIBじゃないけど。

ウェイランドに話をもどすと、「12 Bar Blues」はその挑戦ぶりも買われてか、評判は決して悪くはなかったが、もちろんバンドサウンドを期待していたファンは失望したし(the Magnificent Bastardsのメンバーも一部参加してる、という前情報もあったと考えるとこれは仕方ない)、セールス的にもあまりふるわなかった。最高42位だったということだ。デイヴ……………………。というより、それだけ当時のSTP楽器隊が「バックバンド」的にきわめて不当な認知を受けていたということなのだろう。レコード会社のバックアップだって、ウェイランドのほうが手厚かっただろうし。逆に考えれば、この時期の別離と挫折があったからこそ、STPが真に価値あるロックバンドで、不可分な運命共同体であることが全世界に知れ渡ったとも言える。ウェイランドにはバンドが必要で、バンドもウェイランドを必要としていた。音楽的にも、精神的にも。

いまや機は熟した。あとは再び歩み寄り、ほっぺにチューをし、化学反応をもう一度起こすだけだった。そして彼らにはそれができた。それをできるだけの力を蓄えてきた。しかし不幸の暗い影が完全に去ったわけではなかった。ウェイランドへの薬物の影響は、まだ抜けきっていなかったのだ。

 

(つづく)